夏の雑木林にて

重なり合う枝葉の隙間から、鋭い光が差し込む。
脳天を、肩を、背中を、ザクザクと刺してくる。
針ほどに細い光は細胞の隙間から体を進行していく。
皮膚がじっとりと汗ばんできた。

湿った土からは蒸気が立ち昇っている。
穴がいくつも空いている。
もうほとんどの蝉が成虫になったのだろうか。
辺りの水分に喧しい声が染み込んでいる。

悪態を吐き掛けて、口を噤んだ。

唇が歪むとナイフになる。
ナイフになるから私は黙る。そう努める。
けれど口は開く。
だらしなく開いて言葉をボロボロと零していく。
そうして関係を切ってしまう。
私の指先から伸びた糸はほとんど切れてしまった。

だから泥でも詰めて、物理的に黙らなくてはならない。
そうでもしないと零れてしまう。
ボロボロボロボロ零れてしまう。
無駄な言葉が、行き過ぎた言葉が、本音でない本音が、考えなしに零れていく。

鳴かずにはいられない蝉め。
自ら居場所を晒す、愚かな蝉め。
だからお前は地に落ちて死ぬ。
腹を晒して死ぬ。



とうそう

塩水か、はたまた血潮か。
滑り気の正体は分からない。

すべすべとした水捌けの良いコンクリートで造られた、鈍く光る紺碧の車庫の奥。
腰まで積まれた土嚢袋の壁から顔だけ出して。
飛び交う銃弾を眺めている。

ふいに音が止む。シンと、冷えた空気が息を吐いた。
今だと思った。今しかないと思った。

落ちていたウィンチェスター M1897を掴んだ。銃口を兵士たちの足元に向ける。
息を殺して、銃身を土嚢袋に押し付ける。
立ちはだかる敵の脛を砕こうと、引き金を引いた。
目の前が赤く鮮やかに色付く。
ズラリと並んで蠢いていた脛は尽く裂けて、破裂した。
彼らは達磨落としの大将のように、床に対して垂直に落ちる。
それから倒れて、ピクリとも動かなくなった。

散弾銃を放り出し、土嚢袋の壁から飛び出した。
倒れていた兵士の一人の体を掴む。脚の分だけ軽い。
兵士を盾に出口を目指す。
倒れた者を踏み越えて逃げる。時折頭を踏むと、西瓜のように割れた。泥濘に足を取られる。
それでも逃げる。転ばぬように踏ん張る。
怯んだら、竦んだら、立ち止まったら。
辺りにはそうした私の結果が尽く床に伏している。

車庫の外には雲一つない星空と満月と、それらを移す海が広がっていた。
掴んでいた兵士を床に落とす。
一歩踏み出した先は浅瀬で滑り気はない。
ただ海水が全身を凍らせる程に冷たかった。
すでに私は死んでいるのかもしれない。

弾丸が肩を掠る。肩の皮膚が裂け、肉は弾けた。
痛みを引き金に現実が戻ってくる。まだ死んでいない。
止まった脚は再び回転する。逃げなければならない。

振り返らずに、月に向かって走り出す。
目の前には光る道があった。



黎明の陰

愛が醒め情だけが残ったリビングで、破かれた罪の形を繋ぎ合せている。
深夜二時、母と二人で。
缶ビールの空き缶から、見えない明日から、目を逸らしている。
紺碧の手に胃袋を鷲掴みにされる苦しさから、吐き気から、逃れるように。

浅い呼吸と紙の擦れる音。破れた切れ端を修繕する音。テープを切る音。深い溜息。
「嫉妬じゃないわ。情けなかっただけよ」
父の罪は、私が産まれた頃から既に犯されていた。
新幹線とテーマパークのチケットが、何よりも手紙と写真が、それを物語っていた。
私を生んだ意味を私に問う母の黄色く濁った目を、見返すことしかできない。

父は長い髪が好きだ。
写真の女の髪は長く、母の髪は短い。
私たちを育てるために切ったのだ。切ってしまったのだ。

夜空が青く白んでいく。夜明けだ。母が目を細めた。
再び遠のいた明日から目を逸らすように、一際長くテープを切った。ねじれた。裂かれた父と女が再び隣り合う。
「ピアスを開けよう、人生変えよう」
立ち上がった母は黎明に身を焼かれ、灰を床に落とした。

私だけが腹の底に沈下した澱を吐き出させずにいる。



曇天
 
テニスコートに人がいない。
そこで初めて、周囲にも人がいないことに気付く。
 
火曜の夕方、天気は曇り。湿った空気は冷えている。
一日の講義を全て終え、赤い自転車を走らせる。
昼の陽気は地平線の彼方に沈んでいた。
街路樹に囲まれたテニスコートは薄暗い。
帰路を覆う空はすっかり青褪めて、路上に停めてある車や自転車を冷やした。
 
目を焼くような朝の景色は跡形もない。
萌える若葉は輝きを失い、躑躅は濁って見える。
物と物との境界は消えかかり、万物が息をしていない。
家も車も自販機も、木々や地面のコンクリートと混じり合って、
陰影どころか輪郭までも曖昧な、鈍い色味の塊に成り下がっていた。
乗っている自転車さえも、血を浴びたように錆びていく。
 
早く帰らなければ。
水気をたっぷりと含んだ土の匂いが漂って来た。
もうすぐ雨が降る。
濡れたもの全てが形を失い、土色の液体になる。



見えない錘
 
服を脱ぎ、風呂場の鏡に全身を映す。
腹の底に何か溜まっているような気がしてならない。
シャワーヘッドを銜え、水圧を上げる。
腹一杯に水を溜め、鳩尾を殴る。
吐く。泥水が溢れ出る。イガつく口から砂粒を吐き捨てる。
再び水を飲む。吐く。繰り返す。
水は透き通っている。透き通ってはいる。のだが。
 
吐き出した砂礫の上に頽(くずお)れる。膝や脛に小石が突き刺さった。
腹の底はいまだ重い。
身じろぎに合わせて、石や砂の削れる音が鳴っている。
瓦礫がうるさいんだ。
崩れた計画が、砕けた理想が、
土の塊と化して積み重なり、耳障りな音を立てる。
完成しろと急き立てる。

楽になりたい。瓦礫を抱えては生きづらいんだ。
嚥下と嘔吐を繰り返す。体が重い。
砂石が、水が、胃の内壁を削る。
粘膜が剥がれ、水は赤く白く濁ってきた。
 
水では動かせない。手では届かない。
キッチンに包丁があったはず。
自分の、腹の中が分からない



キッチン
 
パンケーキのタネが、ぶくぶくと太っている。
まん丸くなれなかった、無様な姿。
 
臓器かもしれない。
焼き上がりが待てずにビスケットを一袋詰め込んだ、
私の胃がフライパンでこんがりと焼き目を付けられているのかも。
 
すっかり満腹になった頃、ついに一枚焼き上がった。
皿に取り上げ大口を開けて齧る。
ほどよい弾力を感じた。
過食に音を上げた胃が弾ける



白砂に埋まった膝
 
天国に行きたいのですが、
どう足掻いても頭の中に駐在する地獄からは逃れられませんね。
私は永遠に救われません。
 
私は死ねるのです。
洗面場で、キッチンで、自室で、庭で、道路で、ビルで、駅のホームで、
洗面器に張った水で、刃物で、ロープで、レンガで、車で、落下で、衝撃で、
いとも容易く死ねるのです。
選択の自由が許されているのです。

しかし、死んでこの目を、耳を、口を、脳を失ったとしても、
確実に逃れられるという保障がどこにあるのでしょうか。
五感が死に、意識や記憶だけが残ればどうでしょう。
気を紛らわす術を失い、考えてはいけないことを考えるようになります。
指一本、眼球一つ、無いが当然に動かせぬまま、
地獄に抗う術すら失うのです。
 
救われたい。
その一心で、かんかん照りの日中や
草木も眠る丑三つ時を歩くのです。
ひたひたと。裸足で。
 
この言い得ぬ焦燥感は、暗く湿った泥沼に沈むというよりかは、
海岸の砂浜に足を取られる感覚に近いでしょうか。
日が良く当たってうんと熱くなった砂の中に、
膝まで埋まって脛が焼かれているのですよ。
 
その時に、救われている。と、
足の裏の摩耗と共に感じるのです。


TOPへ

inserted by FC2 system