春休みの終わり頃だった。スノボーなんかに行き飽きて、部屋で腐っていた時期だ。起き抜けに郵便受けを覗いたら、友人である岡本から手紙が届いていた。
 岡本は学科のお調子者である。ピアスはおろか、染髪もしないような真面目ななりをしているくせに、遊んでいる集団に属している。爽やかな短髪とくしゃっとした正しく破顔と言える笑顔が魅力的な奴で、この笑顔を見れば大概のことは許せるくらいいい顔だ。その顔に相応しく、挙動も爽やかで気がいい。友達が多いようで、色んな奴と挨拶を交わし、軽やかなフットワークで遊びに行っている。
 そんな岡本から届いた手紙は真っ白な封筒に、黒で宛名が書かれている。岡本が手紙と言う時点で不思議なのに、この神経質そうな手紙のレイアウトである。何事かと思い、ラインを飛ばす。いつもなら引くほど早くに付く既読が付かない。マメな岡本が珍しい。まだ寝ているのか。
 そんなことより朝食だ。6枚切りのパンにベーコンとチーズを乗せてトースターで焼く。焼き上がるまでの時間で巣籠もり卵を作った。ついでに、コップに牛乳を1杯注いでテーブルに置いた。焼き上がりの合図を聞いて、トースターからトーストを取り出す。巣籠もり卵に使ったホウレン草の他にも青物が欲しくてレタスを挟む。出来上がった皿をテーブルに並べた。
 一息ついた所で岡本から届いた手紙の封を切った。元来、私にはペーパーナイフを使う習慣がなかった。封筒をビリビリにして中身を取り出していた私にペーパーナイフの存在を教えてくれたのは岡本である。さては岡本、ペーパーナイフを使う機会をくれたのだろうか。何て粋な奴だ。 封筒から取り出した便箋はやはり白かった。

  阿佐ヶ谷へ
  俺は、これが届く前の晩には死んでいる。
  理由ばっかりは言うのが恥ずかしいから、阿佐ヶ谷には教えてあげない。
  俺はずっと阿佐ヶ谷のことが好きだった。
  だから、俺の死を一番に知って欲しくて、この手紙を書いている。

 遺書だ。これは岡本からの遺書だ。なぜだ。つい昨日まで電話をしていたが、そんな素振りは全くなかった。私のことが好きだって、それは今になって言うことなのだろうか。続きを読む。

  もう死ぬから言うけどね、死体を阿佐ヶ谷に見てもらいたいんだ。
  俺は簡単には見付からない所で死ぬ。死に場所は手紙に書いて、明日家に届くようにした。
  もし、阿佐ヶ谷さえよければ、俺を見てくれないか。通報とかはしなくていいから。ただ見るだけでいいから。
  俺の一生のお願い。
  死に場所の見当は付く?
  滝の綺麗なあの山だよ。
  1日だけ、成仏しないで待ってるから。

 手紙はそれで終わっていた。何てわがままなやつなんだ。おかげで食欲が失せた。大学へ行く気も失せた。しかし、私は外出の準備をしている。定期と財布と携帯を持って、閑散とした電車に揺られている。何となくラインを開くが、相変わらず既読は付かない。電話を掛けても出なかった。
 嘘か本当かは分からない。もしかしたら岡本は生きていて、着いた先には大学の連中もいて、信じた私を笑うかもしれない。それでも無視することはできなかった。遺書で一生のお願いなんてされたら、行くしかないじゃないか。
 車窓からカンカンと照る日がこの身に刺さる。春先とはいえ油断ならぬと着込んだジャケットにジワジワと熱がこもる 寂れた列車はガタンガタンと揺れが激しい。その内に脱線して死ぬんじゃないかというほど荒く感じる運転だ。普段使っている電車とは大違いだ。岡本もこれに乗ったのだろうか。尻を緩やかに痛めながら、死へと近付いたのか。ジャケットの中でこもった熱がぽっぽと顔まで到達する。体が汗ばんできた。 ×××駅に辿り着いたのは昼前だった。とは言え、早く見付けられるにこしたことはない。きっと、××の滝だ。そこに岡本がいるのだろう。


 山に入ると心なしか気温が下がったように感じた。木のお陰だろうか。うっすらと浮かんでいた汗もすっと引く。
 岡本の死体は冷たいのだろうか。私が見つけてやらなくても岡村は見付かるだろう。しかし、岡村はおそらく今も順調に腐っている。面の皮一枚剥いだらどうなっているのかは保証できない。この気温であればすぐにとは言わずとも腐るだろう。まして水辺だ。グズグズの土左衛門になってはいないだろうか。あの綺麗な笑顔が二度と見られないというのは悲しいことだ。パンパンに膨れた顔じゃあ、あのくしゃっとした笑顔はできないだろう。
 滝まではそう遠くなかったはず。一緒にここに来た時、岡本は軽やかな足取りで滝へと向かっていた。本当はこういう所の方が好きなんだと笑って。あの表情はあまり見たことのない穏やかな笑みだった。
 岡本はなぜ死を選んだのか。その理由が気になっている。私が一番に見付けたら、その理由が分かるんじゃないか。そんな気がしていた。
 気温が一段と下がる。水の音が聞こえる。もうじき滝に着く。岡本はどうやって死んでいるのか。どの辺りにいるのか。頭の中は岡本が占めていた。
 滝は轟々と音を立てて、水を落としている。30メートルほどと言えど随分高い滝に感じる。
 その滝の近くの岩部に頭部のない死体が引っかかっていた。滝から身を投げたのだろう。体はぐにゃりとしていて血が染みて黒くなった岩に貼り付いている。破裂したであろう頭部は見当たらない。
 死体は岡本が気に入って着ていた服を着ている。あれが岡本だろうか。いや、まだそうと決まったわけではない。持ち物があればより確実に岡本だと特定できるだろうと思い立ち、水の中に足を踏み入れようとしたその時。
「駄目だよ。阿佐ヶ谷が濡れちゃう」
 聞き馴染みのある声がした。思わず顔を向ける。水の中に黒い塊があった。
「岡本……」
 それは岡本の頭だった。滝から落ちてこうも綺麗に首と胴体が分断されるとは何て器用な死に方なんだ。水面に浮く岡本の頭を眺めながらそう思った。
 岡本はすすっとすべらかにこちらに近寄って来た。さっきの声は幻聴かと思っていたが、そうではないようだ。注意深く見ていると、てっきと生首だけだと思っていた岡本に体があることに気付いた。
 岡本は生きていたのか。ならあの死体は一体誰だ。岡本は自殺した自分を見て欲しかったのではなく、殺した誰かを私に処理して欲しかったのだろうか。私の力ではこの死体を処理することはできないのに。
 それにしても、どうして死体のある滝で泳げるのか。そもそも暖かくなってきたとはいえ、まだまだ水に入れる気温ではない。
「阿佐ヶ谷、どうしよう、俺」
 こんなんなっちゃった。
 岡本は器用に水面から足を出した。目の前に出されたそれを足と言っていいのか分からない。それは魚の尾っぽだった。岡本の下半身は丸ごと魚になっていた。
「岡本……人魚になったの」
 私は考えることをやめた。


 気が付くと風呂場にいた。浴槽の中には岡本がいる。こんな狭い所に押し込んでしまって悪いことをした。
 どうやってここまで連れて来られたのかは自分でも分からないが、ここに連れて来られたのだから、私は上手くやったのだろう。
「阿佐ヶ谷、俺ね」
「……お腹空いたの?」
 そこで、食べそびれた朝食のことを思い出した。冷めて固くなっているだろう朝食のことを。岡本に食べさせようと思ったが、今の岡本が私と同じ食生活なのかは分からない。
「違うよ、そういうんじゃない」
 岡本は眉を下げて抗議した後、唇をキュッと一回結んでから口を開く。
「俺ね、死ぬ時に阿佐ヶ谷の顔が見たいって、考えちゃったんだ、魚かなんかになって、阿佐ヶ谷に飼われたいって思った」
「……だから人魚になったって? それはさすがに面白過ぎるでしょ」
 岡本に恨めしそうな目付きで睨まれ、笑いを堪えようとするが、堪え切れずに肩が震える。しばらくそうしていたら、水をかけられた。笑うのを止めても止まぬ水鉄砲に、私の家の風呂の水だぞと抗議すると、水が飛んでこなくなった。
「岡本、歌ってよ。人魚でしょ」
 人魚は歌がうまいと聞く。今ちょうど、人魚になってしまった岡本がいるのだから、その歌声を聴けるのではなかろうか。期待を込めて視線を送ると、岡本は眉を下げて笑っていた。
「駄目だよ阿佐ヶ谷。俺のこと好きになっちゃうよ」
「は」
「俺、人魚だから」
 遺書のことを思い出す。そうだ、岡本は私のことが好きだったんだ。人魚の歌は人の心を虜にすると聞いたことがある。どうして駄目なんだろうか。歌ってしまえばいいのに。
「でも岡本、私のこと好きなんでしょ。歌えばいいのに」
「そういうのは嫌なんだよ。分かってよ」
「分かるけど、構わないよ」
「え」
 岡本がポカンと口を開けて間抜けな表情をしている。
「岡本のそういうとこ、好きだよ」
 しばらくして、岡本が破顔する。こちらもついにやけてしまう。私はその顔が見たかったんだ。
「岡本のこと見付けられてよかった」
 そう言うと、岡本はおかしいと言いたげに眉と口角をひょいと上げた。目が三日月のように細くなる。
「でも、俺が手紙を書かなかったら、ずっと気が付かなかったでしょ」
 自嘲する表情は、至極歪な笑みであった。
 岡本は魚が食べたいという。何の魚かと聞くと海の魚がいいと言う。川で生まれたがゆえに川魚は食べたくないらしいが、その感性は私には理解しかねた。
 早速、スーパーでイワシを買う。いくつ食べるか分からなかったので、とりあえず3本買った。食べ損ねた朝食と魚を持って浴槽へ向かう。微かに歌声が聞こえた。ほんの数週間前に行ったカラオケで聴いた声とは雰囲気が違う。扉に手を掛けると歌声が止まった。
「歌ってていいのに」
「嫌だ」
 岡本の目の前にイワシをぶら下げ、いくつ食べるか聞くと1本でいいと言われた。水族館でアラザシに餌をやる様子を想像していた身としては少し拍子抜けした。しかし、あまりたくさん食べられても食費がかさむだけなので、正直な話、助かる。
岡本はパリパリと音を立ててイワシをかじる。皮が、身が、みるみるうちに削げていって、暫くすると彼の手の中には骨しか残らなかった。
「骨は食べないの」
 岡本をずっと見ていて、自分の食事を忘れていた。慌ててトーストに噛り付く。
「人魚だからね」
 人魚は他の魚のように丸のみなぞしない。だから骨を食べない。岡本はそう主張して、骨をこちらに差し出した。受け取った骨は水酸化ナトリウムに沈めた標本みたいに綺麗な状態だ。さっきまで身が付いていたとは思えない。
 食事を終えた岡本は遅れて食べ始めた私を見ている。落ち着かない。さっきはジロジロと見て悪かった。悪かったから見るな。私を見るな。そんな、湖のような静謐さを湛えた目で私を見るじゃない。そう言いたくなったが、詰め込んだトーストが邪魔をしている。半ば祈るように、口の中のトーストを噛み締めた。
「阿佐ヶ谷は大口を開けて食べるんだね。よく噛みなよ。慌てて食べると胃に悪いから」
 そうさせるのは誰か。恨めしく思いながら、冷え切って硬くなったトーストを念入りに噛み砕く。
「俺はもう、魚しか食べられないからなあ。阿佐ヶ谷はパンが好きなの」
首を振る。私は米の方が好きだ。口の中のトーストを飲み込む。1つの物しか食べられないのは悲しいことなのだろうか。
「米。岡本は」
少なくとも、この先何かを食べたとして、それが美味かった時、岡本と共有できないことは寂しい。
「俺はパンが多かったからパンかなあ」
「変な物言い」
岡本は首を傾げる。
「好きってそういうことじゃないの? 好きだから食べるってのもあると思うけど、俺はたくさん食べてるから好きなんじゃないかと気付いて好きになるんだ」
何かを説明する岡本は済んだ水のように透き通った真顔になる。今気付いた。
「じゃあ、私のこともそういうことなんだね」
岡本の好きが相対的な物なのであれば、彼に好かれた要因は接触回数であろう。たくさんの人と関わっていた岡本だ。私にとっては濃密な時間でなくても、彼にとっては相対的にそうであったのだ。恐らく。
「かもね。でももう心変わりはないよ」
澄んだ湖畔に指を差し込むがごとく、岡本は表情を緩めた。安寧の地を見付けたかのような顔だ。
「いいや、言い切れない。その話を聞いたら、歌を聴きたくなくなった」
「俺のこと嫌いになったの。悲しいなあ」
悲しいと言う割に、そう見えない表情だ。死んで人魚になれば多少の悲しみやら戸惑いに強くなるのだろう。生前の岡本はもう少し頼りない表情をする奴だった。それが結構嫌いじゃなかった。
「違うよ。私は岡本をいつかあの滝に返そうと思っているんだ。そうしたら、岡本はきっと、関わりが増えた誰かのことをパンのように好きになるでしょ。でも、歌で岡本を好きになった私は、きっとずっと岡本のことが盲目的に好きなんだ。だから、歌は聴きたくない」
「嫉妬」
ぽつりと、岡本は言う。眼球に湛えた湖畔はキラキラときらめいている。
「そうかもしれない」
何て不条理なことなんだと思った。
「俺ばっかりが阿佐ヶ谷のことを好きなんじゃないってこと。それとも阿佐ヶ谷のわがままなの」
岡本はどことなく嬉しそうだ。何て奴。
「分からない。でも、わがままなことを言っている気はした」
言わなくていいことを壊れた蛇口みたいに漏らしている。ボロボロと零れていく。この後、1人になったら恥ずかしい思いをするのだろう。
「そっか」
岡本は死んで、人魚になって、私に会いたいと遺書まで遺した。私はよく分からないままに岡本に会いに行って、彼をこんな狭い浴槽に押し込んでいる。
馬鹿みたいだ。死者に、人でないものに振り回されて。
「そういう風に考えてくれることは、俺にとっては嬉しいよ」
浴槽から手が伸びる。招くように揺らめいている。手を取ると死人のように冷たかった。
「そうだ。自由になった岡本はいつか誰かを好きになるんだ。そして、岡本の歌を聴かなかった私もいつか誰かを好きになる。それがいい」
岡本は柔らかな表情のまま、私の手を指を絡めた。
「阿佐ヶ谷、今俺が歌ったら、阿佐ヶ谷は俺をここから出したくなくなるし、俺以外の誰かを好きになることもなくなるよ。それもいいんじゃない」
何だよ。岡本、そういうの嫌なんじゃないの。


 逃げるように浴室を去った。食事も終え、今日はもう家から出る予定はない。眠るのはまだ早いが、岡本の元に戻る気はなかった。昼寝というには遅いが、何も考えずに寝転がりたい。寝床に向かう。
 岡本が人魚になって色々と戸惑うことが多いが、彼が浴室から出られないことには感謝している。彼は地に足を付けて歩くことができない。あの尾っぽで歩くのは物理的に無理だろう。あの滝からここまで運べたのだから、暑さや乾燥には強いのだろうけど。
 いつもの場所に布団を敷くことすら面倒で、床に寝転んだ。汗で体がベタ付く。フローリングはひんやりと冷たい。じわじわと、体と接している部分が湿っている。
 不衛生だ。しかし、風呂に入るのは面倒だ。そもそも、浴槽は岡本が使用している。近所に銭湯などもない。どうしたものか。ええい、面倒だ。
 寝転がっている内に意識がぼんやりと遠退いてきた。遅い昼寝だ。何時に目が覚めるだろうか。ああ、夕飯……。岡本は食べるのだろうか。冷蔵庫に入った鰯のことを思い出す。持って行ってやらなくては。勝手にこんな所まで連れてきてしまったんだ。ちゃんと面倒を見ないと。岡本には足がないから、ずっと浴槽に居続けるしかないから、私が放ってしまったら死んでしまう。一眠り。一眠りしたら、鰯だけ投げ入れて……。ああ、遠くから歌が聞こえる。岡本だ。綺麗な声だ。

 目が覚めるとすっかり日が落ちていて、部屋は真っ暗になっていた。電気を点ける。
「岡本、晩飯、鰯……」
 冷蔵庫から鰯を取り出して、浴室へ向かう。
「阿佐ヶ谷、来てくれたんだ」
「だって、そりゃあ、私が岡本をここに連れて来たんだから、無責任なことはしないよ」
「優しいなあ」
 鰯を放り投げると岡本はにやにやしながらキャッチした。パリパリと、やはり綺麗に食べる。
「岡本は暑さや乾燥には強いの?」
「さあ」
 さあって、何だよ。さあって。
「だって、あの滝からここまで電車とバスに乗って結構掛かるよ。ケーキだったら保冷剤足りずに傷んじゃう」
 冷静に考えたら、これを岡本の友人になる川魚たちでやったら、皆腐臭を放って死ぬだろう。でも岡本は無事だった。
「そうかもね。そうじゃなかったら、俺は阿佐ヶ腕の中で死んでいたのかな」
「嫌なこと言わないで」
 そんな、何ともないような顔で。
「……そういえば、阿佐ヶ谷、俺がいたら風呂入れないよな」
 話を切り替えるように岡本が言う。さっき仮眠を取る前に同じようなことを考えていた。
「いいよ、シャワ―浴びるから」
「ごめんね。バスタブ占領しちゃって」
「謝らないでよ。私が連れて来たんだから」
 風呂のために洗面場やシンクなんかに住まわせる気もないし、本当はもっと広い所で自由に泳いで欲しい。
「見ないから安心して」
 岡本は下を向いた。ずっとこのままでいたら首が痛くなるだろうに。
「いいよ、減るもんじゃないし」
 そう言っても岡本は俯いてこちらを見ない。岡本は私のことが好きなのに、私はなぜこんな無神経なことをしているのだろうか。これなら誰か1人暮らしの奴に風呂を借りた方がいいかもしれない。
「やっぱ、誰かの家……」
 ここで岡本が素早く顔を上げた。悲壮な表情だった。自分の顔が引き攣るのが分かる。それを見た岡本は眉を下げてごめんと呟いた。
「どこかへ行かないで」
心細そうな表情だった。初めてのおつかいに放り出された幼児のような。
「俺には、阿佐ヶ谷を追ってここから出ることすらできないんだ」
 私がそうしてしまったんだ。人魚を陸に連れ込んで、僅かな水しかない浴槽に閉じ込めて。残酷なことをしてしまった。胃がぐうと痛む。じわじわと苛むように、ぐうぐうと痛んでいる。
「……なら、どこか行くことがあったら連れていくよ。岡本がここに来たみたいに」
 そう言って、岡本の腋に手を差し込む。そういえば、魚にとって人の体温は火傷するような熱さだと聞いたことがある。少し不安になったが、岡本は人魚だし、あの時運べたのだから平気なのだろうと判断した。
「あれ」
 持ち上げようとするが、かなり重い。抱えて100メートルも運べない重さだ。
「岡本、私は本当に岡本ををここまで運んでこられたのかな」
「でないと、俺はここにいないと思うけど」
 あれは火事場の馬鹿力だったのか。だとしても体のどこも痛くない。普通ならすでに筋肉痛にでもなっているだろうに。明日になったらくるのだろうか。
「……」
「不思議だね」
腑に落ちなかったが、岡本が緊張感のない顔をしているから、細かいことはどうでもよくなった。
「阿佐ヶ谷、シャワー浴びてさっぱりしなよ。これが日常になるんだから」
「そうだね」
 誰かの家の風呂を借り続ける生活なんて相手の迷惑でしかない。さっさと服を脱いで脱衣所に放り込み、シャワーを浴びる。さすがにお湯を出すのは憚られたので水を浴びている。岡本はにこにこしながらこちらを見ている。
「お湯でも平気だよ」
 岡本が温度調節のハンドルに手を掛けた。じわじわと水が温かくなっていく。ここは岡本の優しさに甘えて頭だけ洗わせてもらおう。充分に髪が濡れた所でお湯を止め、泡立てたシャンプーを髪に馴染ませる。指を立てて、こめかみから頭頂部、生え際から後頭部と掻いていく。髪がたっぷりの泡を含み、もこもこと膨らんでいく。もう充分だ。
「泡流す?」
「うん」
 答えた途端にお湯が降ってきた。咄嗟に目をつむる。水は頭頂部に掛かり、重力に従って落ちていった。流れに逆らって髪を掻き混ぜ、シャンプーをきちんと洗い流す。これでいいかと思ったタイミングでお湯が止まった。岡本、何て絶妙なタイミングなんだ。思わず岡本を見てしまう。
「人魚になると、人の心まで分かるんだ」
「そうなの」
 有り得そうだと思いながら、ぼんやりと岡本を眺めながら体を洗う。
「嘘。ちょっと信じたでしょ」
 岡本は至極楽しそうに笑った。
「嘘吐き」
「そう。俺は嘘吐きなんだよ」
 なぜが笑いが漏れた。それからは何も言う気にならなくて、黙って浴槽を後にした。服を着る気も食欲もわかず、布団だけ敷いて寝た。
 全身に揺れと冷たさを感じる。足がプラプラと揺れている。布団や床で寝るような、地に足が付いた感覚がなく心許無さに襲われた。うっすらと目を明けると硝子みたいに煌めく葉の群れがまず見えた。
「阿佐ヶ谷、気が付いたんだ」
 声のする方に目を向けるように顔を後ろにやると、くすくすと控えめに笑う岡本の顔があった。
「驚き過ぎだよ。気絶されるとは思わなかった」
 どうやら、ずぶ濡れの岡本に抱えられているようだ。人魚になったはずの岡本にはちゃんと足が付いている。私たちは森にいるようだ。ここは人魚となった岡本を見付けた森だ。どうやら、岡本を見た後に気を失ってしまったようだ。
 しかしどうして、私が岡本を抱えているのではなく、岡本が私を抱えているのだろうか。夢は記憶を整理するものだというが、なぜここだけ逆なのか。変なところだけ夢らしい。
「ねえ」
 こちらの思考を切るように岡本が言った。
「結ばれない人魚は、好きになった人を殺さないといけないんだってさ。泡にならないために」
 脅しかと聞けば、かもね。とあっさり返ってきた。あまりにも軽い声色だったので、こちらまで大したことでないように錯覚してしまいそうだ。
「御伽噺と同じなんだ。てっきり妖怪寄りだと思ってた。不漁の兆しとか不死の薬とか」
「それも兼ねてるよ。何なら食べてみればいい」
 物は試しだと岡本は笑っているが、あまりにもリスキーなチャレンジである。
「嫌だよ。皆に先立たれるんでしょ。死ねないし」
 そんなのは寂しい。幸せな不老不死者なんてものがいるのだろうか。ひっそりと人を避けて生き続けているイメージしか沸かない。
「少しだけ齧ればいいんだ。大丈夫、俺も長生きだから、一緒ならきっと退屈しないさ」
そういう問題じゃない。引き攣る口元のせいで声が震えた。
「安心してよ。人魚の声は人の気持ちを変えることができるから。きっと、楽しく暮らせる」
「岡本はずるいね。人魚姫は足の代わりに声を失ったのに」
「多分、違うものがなくなったんだ」
「パッと見じゃ分からないな」
内臓だろうか。人魚の足と引き換えに腎臓一つとか。いや、腎臓の他に要るだろうか。そう考えると人魚というものが妙に生々しくキナ臭く感じる。
「多分命だよ。俺さっき死んだから」
「なら何で動いてんの。死んでんのに」
そう言いながらも、岡本がずぶ濡れといえど死体のように冷たいこと、触れた胴体から全く鼓動が感じられないことが気になっていた。
「何でだろうね。俺も知らない。きっと、生かされているんだよ」
何に。とは聞いてはいけない雰囲気だった。
「でも、もう死んでるんだったら、私は殺されないんだね」
言葉の綾ではあるが、ここで黙っているのも心許ないないので、無理くり話を続ける。
「ううん。殺さないと泡になるんだ。自己を失って海の泡の一部になるなんて考えたら気持ち悪いよ」
「だったら、私の気持ち変えちゃえば」
歌で。と笑いながら言うと岡本は眉をハの字に歪めた。
「本気にしちゃうよ」
「すれば。だって、気持ち変わっちゃうんでしょ。違和感すらなく。それはもう嘘とかじゃないよ。例え岡本の言いなりになっても私が疑問を抱かない限り、私も岡本も幸せでしょ。少なくとも、私の立場での不満はないよ」
「嫌だ」
「何だ、乙女か純情か」
「そうやって、人のことからかって」
「それが嫌なら、殺すしかないじゃん。泡になっちゃうんだから」
「それは絶対に嫌だ」
「タイムリミットは?」
「ある。ギリギリまで頑張る」
「そっか」
「それまでに好きになって」

そこで目を覚ました。寝室の布団で寝ているのに、枕元には岡本がいた。
「……幽霊かって思った」
茶化してみたものの、内心頭が痛かった。どうやってここまで来たんだ。まさか、本当は歩けるのかよ。人間と変わらず。今までずっと、私の勝手で岡本をここに留めていると思っていた。でも、岡本はどこにでも行けたんだ。そのための足を持っていた。
「もうすぐ、泡になる」
 夢だけど夢じゃなかった。ってか。そう思うと笑いと虚しさが込み上げてきた。滑稽だと思った。
 岡本は泡になりたくないからここにいるのではない。それは分かっている。確信こそないが、そう思う。泡になりたくなければ私を殺すか、心を掴めばいいのだ。そしてそれは岡本にとって容易いことである。歌えばいいのだから。私はそれを許可している。
「歌いなよ。そしたら」
「そういうことじゃないんだよ、そういうことじゃ。それに」
そこで岡本は言葉を切った。そこまで言って続きを言わないのはずるい。
「それに?」
先を促すと、岡本はしばらく躊躇うように口元を動かして、搾り出すように続ける。
「……俺は所詮ニンゲン上がりだから、中途半端なんだよ」
根本から阿佐ヶ谷を騙せないんだ。消え入りそうな声ではあったが、切実さが感じられた。
「そうか」
 それでも岡本に対して嫌悪感などはなかった。恋い焦がれるようなときめきを岡本に感じることはなかったが、岡本の代わりに泡になっていいくらいには岡本のことが好きだった。でも岡本にとってそれは嬉しくないことらしい。最早どうしていいか分からない。
「岡本、もうさ、私のこと食べれば」
「急に何を言うかと思ったら」
「だって、私は恋するみたいに岡本を愛せないんだ。岡本のために死んだっていいのに、代わりに泡になったっていいのに、岡本が望むように転ばぬ先の杖のような愛の形を示すことはできないんだ」
「じゃあ、阿佐ヶ谷が俺を食べてよ」
 俺が阿佐ヶ谷を食べたって、俺は満たされない。この先ずっと阿佐ヶ谷のことを思って生きていかないといけないんだ。阿佐ヶ谷にそれができる? 長生きしたくないんでしょ?
 泡になって死んでやるとでも言いたげな勢いだった。散々嫌がっていたくせに。と茶化すことはできない。
「岡本がそう望むなら」
 胃の中に岡本がいると思えば、正直今までのように暮らすことはできない。きっとどこか大事な所で岡本の顔や声がチラつくのだろう。岡本を思いながら、細く長く生きなければならない。
「歌ってあげないよ」
「いらない。こっちから願い下げ」
 布団から出て、座っている岡本を立たせる。やはり重たい。それでやっと、私が運んだのではないんだなと確信した。岡本の足は相変わらず鱗に包まれていて、魚のような様相はそのままであったが、尾は二股に分かれまるで河童の足かダイバーが装着する足ひれのようにしっかりと地に足を付けていた。
 歩き出すと岡本はついてきた。寝室を出て風呂場に入る。浴室は人が2人が入るにはやはり狭い。風呂の栓を抜く。ズゴゴゴと水が渦を巻き流れていく様を岡本はじっと見ている。
「そこで待ってて」
 浴槽を指差す。岡本は頷きもしなかったが、気にせず風呂場を後にした。キッチンへ向かう。包丁を取りに行くついでに冷蔵庫を開けて鰯を一尾取り出して、ガスコンロに備え付けられた魚焼きグリルの中に放り込む。火を入れるとジリジリと魚を焼く音が聞こえてきた。焼き始めの魚を置いて、冷蔵庫を再び開き、岡本が食べる分の鰯をもう一尾取り出した。
 風呂場に戻ると岡本はすっかり空になった浴槽から窓の外に視線を向けていた。
「ただいま」
「逃げたのかと思った」
 まさかと笑ったが、岡本は本当にそう思っていたようで表情にいつもの柔らかさがなかった。
「これ」
 自分のは焼く時間があるから先に食べていてと告げると今度は素直に頷く。
「最後の晩餐ってやつだね」
「そうだね。私にとっては腹ごしらえになる」
 持っていた包丁を浴槽の棚に置く。ふと、岡本に痛覚はあるのだろうかと疑問を感じた。
「岡本は痛みを感じるの」
 魚は痛みを感じるか。という題材の広告を新聞でチラと見たことがある。魚じゃないから分からないが、魚に近い岡本はどうであろう。それによって、殺し方を変えなくてはならない。私に課せられた使命は岡本を食べることである。無駄な痛みを与えたくはない。
「感じるよ。感じるけど、それが苦痛だとは思わないんだ」
 それが死んでいるからか魚であるからかは分からないと続ける岡本に相槌を打った。そういうものらしい。痛みが苦しみに直結しないということはどういうことだか分からないが、そうであるから痛みを感じても平気だと言う主張だと判断しておく。
「ならよかった」
 もっと早くにこうしていればよかった。そうしたら、岡本を殺さないようにして少しずつゆっくり確実に調理して食べられたというのに。しかし、痛みに類する感覚があるのならばなるべく早く楽にしてやりたい。そこは反応を見つつ、追々考えよう。
 そろそろ魚が焼けただろうか。岡本はまだ魚を食べていない。私を待ってくれているようだった。魚を取ってくると言えば、岡本は静かに頷いた。
 キッチンへ向かうと油が跳ねる音が聞こえた。火を止めてグリルから鰯を取り出すと、皮が弾けて所々から身が露になっていた。長方形の皿に乗せるとジワジワととけた脂が滲む。風呂場に戻ると岡本は手の中で鰯を持て余していた。
「食べよう」
 そう告げて、共に手を合わせる。食べ方は違えど同じ物を食べている。にも関わらず、その意味合いは全く異なる。私たち2人にとっては最後の晩餐だ。岡本個人にとってもそうである。
 しかし、私個人としては腹ごしらえでしかない。これから岡本を殺し、解体し、食する準備のためである。人魚と言えど人の大きさをした生物を殺して解体するのだから、腹に何か入っていないと力が出ない。大仕事になるだろう。岡本が泡になるまで時間がない。それまでにきっちり全部腹に収める。
 岡本は変わらず綺麗に鰯を食べた。それから、私が残した鰯の骨を欲しがった。骨をつまんで差し出すと、器用に口で受け取った。
 腹は満たされた。休んでいる暇はない。皿を洗う時間すら惜しい。包丁を手にして岡本に近寄ると、彼は口元に緩やかな笑みを浮かべた。

 栓を開けっ放しにした浴槽は肉の欠片や脂肪で詰まって流れずに、血だまりができている。ブロック状に解体した岡本は一日で食べられるか分からない量だった。いつ泡になるのか分からない。骨や爪や髪などの食べられるのか分からない部分は置いておいて、とりあえず肉を食べることにした。食べることなく霞のように消えるかもと思うと、気が気でなかった。
 血に浸された肉を取り出して、噛り付く。鉄の味がした。目的は食べることであって、味はどうでもいい。ただ漠然とこれが岡本かと思った。肉であることは確かであるが、その味は言語化することのできないもので、今まで食べて来たものの何にも似ていない。何より血の味が強くてよく分からない。
 一塊食べてホッとする。一口も食べることなく岡本が消滅することはなかった。血で汚れた手を舐めて、顔など舐め切れない所は水で軽く洗う。一息吐いたら、浴槽の栓に詰まった肉片を掻き混ぜて血を流し、再び詰まらないように洗面器の中に肉片を除ける。シャワーで洗い流すと、血に浸っていた岡本が綺麗になった。爪や髪の毛は食べながら必要な時に剥ぐなり剃るなりしよう。骨やこれらが残る物ならば、大事に保管したい。手紙の他、これらも岡本の遺品になるだろう。
 引き続き肉を食う。とりあえず手当たり次第に齧り付き、岡本を限界まで腹一杯に詰める。飲み込めるように何度も何度も咀嚼して飲み込んでいるうちに、顎が疲れ、胃がギュウギュウに苦しくなる。これ以上は吐いてしまうという所まで食べて、一息つく。
 岡本と同じ味の魚が存在するのだろうか。魚の部分も人の部分も今まで食べて来たものの味とは丸っきり異なった。人の部分はさほど美味くはなかった。チラリとテレビや本で見たことのある人を食った奴らは美味いと言っていたのを記憶しているが、実際の所美味い不味いなんてものは人それぞれなのだろう。魚の部分は淡泊な刺身という感じだ。実際魚であることに間違いないが、それでも不思議な気持ちになる。とにかく食べるしかないから、美味いとか不味いとかいうことは重要ではなかった。食べるために必死で剥がした鱗がそこらに散らかっているのが視界に入る。これらを片付けたら寝てしまおうと思った。
 岡本はまだ大量に残っている。魚の部分は魚を捌くように、人の部分は骨と分けながら解体した。それらをパックに小分けして冷凍庫に詰める。冷凍庫は岡本でみっしりと埋まった。骨と、肉片を片付ける際に剥いだ爪と剃った髪の毛と鱗はキッチンペーパーで水気を取ってベランダに出す。ベランダに出ると外はどっぷりと夜に暮れていた。しばらく置いておけば乾燥するだろうか。歯のことが気になったが、それは頭部を食す時に考えよう。
 岡本を殺して一日目は、魚肉と人肉をまんべんなく食べてから寝た。布団に入ってからふと、血を残して置かなかったことを少し悔やんだ。

……

 二日目、まだ日が昇り切らない時間に目が覚める。夜中に大量の肉を食べたせいか、胃が重たくて気持ちが悪い。右半身を下にしても、調子はすこぶる悪い。それでも、岡本を食べようと思った。奇妙な飢餓感に焦らされているような心地だ。すぐに台所へ向かい冷蔵庫を開けた。岡本の死体はちゃんとそこにあった。泡にはなっていない。それからベランダに行く。骨はもちろん、爪や鱗もそのままだ。骨を持って台所へ戻る。
 コンロに火を点け、大量のお湯を沸かす。その中に骨を入れた。きっと良い出汁が取れるだろう。これで料理のバリエーションが増える。さすがに一日経った今、生肉の状態では食べられないだろうし、岡本を全て食べ切ると決意した今、魚と人と種類はあれど、飽きて食べられなくなるというようなリスクもなくしておきたい。お湯が沸くまでの間にパソコンを立ち上げて、クックパッドのレシピを探す。このためだけにプレミアム会員になったのだ、必ずや岡本を美味しく食べ切る。まずは味噌汁を作って、肉を生姜焼きにでもして白飯のお供にしよう。焼き魚でもいいかもしれない。パンを食べる時にはベーコンやハムがあるとよい。人肉でも作れるのだろうか。これも後で調べておこう。
 本格的な料理は追々するとして、岡本の骨を煮込む横で、冷蔵庫から出した岡本の人の部分を取り出して小麦粉に絡めてフライパンで焼く。そうしている間に鍋が沸騰したので中に豆腐とネギを入れて味噌汁を作った。鍋の火を落して、生姜を卸しながらフライパンを見守り、肉が焼けた所で生姜と調味料を混ぜてフライパンの中で絡めた。そこそこであるが調理した岡本は美味かった。
 食器を片付けながら考える。人魚とは元々そういう妖怪がいるのではなく、人がひょんなことからそうなるのではないだろうか。人魚はみんな一人で、同じような生き物がかつていたことだけを胸に、ひっそりと孤独に生きる。そうして、うっかり人に見付かった者が目撃情報の厚みになるのだろう。そう考えると、少し悲しくなってきた。それから、やっぱり私が岡本を食べてよかったとも思う。人は人魚を食べると本当に不死になれるのだろうか。だとしたら少しでも長い間、岡本を食べていたい。おはようの挨拶をするように岡本を朝食の卓に並べ、昼も夜も同じようにできたらいい。なるべく長く。泡にならないのだとしたら、是非そうしたいものだ。しかし、それが定かでない。なるべく早く食べるしかないのだ。腹の中で泡になってもいい。そもそも食べた物は排泄されるのだ。自己満足だ。きっと、思い出が欲しいのだと思う。手入れをするように食事を作り、着飾るように皿に盛って、待ち合わせをするようにテーブルに並べ、会話するように咀嚼する。本当に自己満足でしかない。しかし、そうしたい。もう岡本はいないのだ。頭を痛めて彼の意志をどうこうと汲んだとしても、それは最早岡本の意志ではなく、私の主観的な解釈でしかない。それならば、私が心地良いように考えてもいいような気がする。事実として、今の岡本は物言わぬ肉塊でしかない。咎める権利を行使できない。だから、それをどう見立てようが私の勝手なんだ。
 爪は細かく砕いて飲んでしまおう。鱗は何やら装飾品に加工するなどの方法で有効利用できるらしい。これだけは手元に置いておこう。髪の毛や歯も何かになるだろう。こればかりは泡になったらそれまでだ。
 昨晩に引き続き、乾かした鱗を水道水でかき混ぜながら1時間ほど洗う、水を切ってから外に置いて一日かけて乾燥させる。
 蓋のある手頃な容器を探してきて、その中に次亜塩素酸ソーダの漂白殺菌剤を20mlと食器洗い洗剤(ポリオキシエチレンアルキルエーテルの硫酸エステルナトリウム塩)を20mlと炭酸ナトリウム20gを水2リットルに溶解させ、そこに鱗を浸した。それから6時間毎にかき混ぜて一日置いておいた。
 次の日、水道水で漂白剤の臭気がなくなるまで何度も洗い、乾燥させた。魚の臭いがないことを確認してから直射日光に当てて一日乾燥させた。
 鱗の処理をしている間、岡本の頭部を解体した。ナイフや出刃包丁やペンチなどを活用して、頬・舌・脳・骨・歯と小分けにしていく。脳味噌は食べてもいいのだろうか。クールー病という病気のことを聞いたことがあるが、もし食べたらどうなるのだろうか。発症後、一年ほどで死ぬとは言っても、私は死ねるのは分からない。さすがに症状が出た状態で長生き、下手したら不老不死というのは嫌だ。一回、全て終えたら実験的に死んでみてもいいかもしれない。それはそれで、病気になった時と同じくらいの不便さが待ち構えているのかもしれないが。 そんなことを考えながら解体していたが、一日で作業が終わった。昼は魚の部分をフライにして食べた。夜は人の部分を薄く切って野菜と一緒に炒めた。それから爪を粉々にして味噌汁に混ぜて飲んだ。脳味噌のことは後回しにしようと思う。頭蓋骨は肉を綺麗に削ぎ落として洗った。それから夜に意を決して脳を食べた。調味料と卵と合わせたり、パン粉をまぶして揚げたり、シチューにしたりした。病気になるのはごめんだが、岡本を信じることにする。そもそも、人魚の肉を食ってる時点できっと何か体に問題が出るのだ。ええいままよ、どうにでもなれというところだ。
 次の日は一日中鍋にした。岡本の肉を白菜と重ねて鍋に詰めて骨からとった出汁で煮た。肉と魚を一緒に食べるのは岡本を殺した日以来だと思った。薬品を使うのは緊張したが、問題なく洗浄を終えられた。空いた時間に髪の毛を束に整えた。
 更に次の日は角煮にした。胃のことを考えて大根など添えてみたが、気休めにしかならなかった。常に腹の中に何かがある。この日は幸いなことに朝から晴れていた。これでようやく加工のステップに進めると胸を躍らせながら鱗をベランダに置いた。それから、岡本の歯を樹脂で固めた。頭蓋骨とくっ付けたままにした方がよかったかもしれないと思ったが、これはこれでいい。
 そうしてできた鱗を使って、思いつく限りの装飾品を作った。ブレスレット、ネックレス、アンクレット、イヤリング、イヤーカフ、イヤーフック、チョーカー……使うかも分からないが、チラシの裏に何個も何個もデザインを描いて、脳から絞り出すように作り上げた。岡本が見たら何と言うだろうかとウキウキしながら作った。いつでも近くに岡本がいる気がする。姿が見えないから寂しいが、虚しさは感じなかった。
 もう、長いこと大学に行っていない。携帯も確認していない。それでも誰かが訪ねてくることはなかった。まだ大丈夫だろう。もう、岡本の加工はほとんど終わっていた。後はもう食すのみである。幸いなことに岡本の味に飽きることはなかった。みるみる内になくなっていく岡本を見ていると寂しさに胸が痛むが、泡になってしまう方が恐い。朝起きて、岡本を身に付け、岡本を食べて、寝る。そんな日々を繰り返していると、着実に岡本は減っていき、とうとう最後となった。一塊の岡本を解凍して、ステーキにした。噛み締めるとほど良い弾力が歯を押し返して来る。じわじわと肉汁が染み出てきて、その優しい味に涙がでてきた。
 岡本を殺した時ですら泣かなかった。やることがたくさんあったから。でも、これでやっと最後なんだと気付いて気が抜けてしまったのだろう。胸の中がぽっかりと空いたような気がして、その晩は岡本の頭蓋骨を抱えて眠った。

 次の日から大学に行った。勉強の遅れは友人のおかげで何とかなりそうだ。太った? と耳に痛い言葉をぶつけてはきたが、友人たちは私のアクセサリーを見てことごとく可愛いと囃したてた。
「趣味変わった?」
「そうかも」
「彼氏?」
 ためらいなく肯定した。きゃあきゃあと黄色い声を上げて自分のことのように喜ぶ彼女たちに形見と付け加えたら、何て顔をするだろうか。恋バナと称した追及がなくなっていいかもしれない。きっと岡本は泡にならない。私は岡本のことを彼の望む意味で好きになったのだろう。だから、形見と言うのは正しい。それでも言わないのは、岡本を欠片も人にやりたくないからなんだと思う。

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