大量の草を抱えて、飼育小屋に入っていく姿を眺める。
「お前らは美味そうだよな」
 飼育委員が兎に向かって何てことをと思いながらも、微笑ましかった。彼は動物が好きだ。暇さえあれば見に行って甲斐甲斐しく世話するくらいには。俺は野球が好きだ。No baseball No lifeと言っても過言ではないくらいには。俺と彼は知り合いですらない。俺が遠くから見ているだけ。名前すら分からない。ただ、廊下ですれ違う度に、心臓を持っていかれる。それでいい。
 金曜日、試合でとんでもないミスをした。小学生でも捌けるゴロをエラーしたのだ。当然のごとく顧問にこっぴどく叱られて、次の試合のレギュラーから外された。何でも、緊張感がないらしい。緊張し過ぎてかもしれないじゃないかとは噛み付けなかった。事実だったから。練習が終わってもなお、顧問のカンカンとした怒号が頭の中に鳴り響いている。目から熱を零しそうになりながらも、気にすんなと励ましてくれる仲間にありがとうと応える。内心で同情してんじゃねー、全員禿げろと思いながら、大丈夫だからと拒絶をした。禿げる余地のない青坊主が目に入る。情けなかった。
 運動部員たちのいない校庭は静かで薄暗かった。居心地はいい。気付けば飼育小屋の前でしゃがみこんでいた。彼がよく世話をする兎を眺める。
「本当に美味そうだな」
 彼以外の人に聞かれたら非難されそうだ。思わず笑ってしまう。
「だろ」
 ドキリとした。振り向くとスクールバッグを提げた彼がいた。野球部がこんな時間に珍しいなと笑っている。何でいるんだよと思っていると、その気色が伝わったのか俺もたまたまだけどと返ってきた。
「……今日は遅くなったんだ」
「へえ。その割には随分ここにいたけど」
 見てたのかよ。何も返せないでいると、彼は草を俺に握らせた。柵から突き出してみると、兎が寄ってきて草を食べ始めた。ぐいぐいと強い力で引かれ、思わず手を離すと草はあっという間に兎の口の中に納まった。兎は思いのほか強引だった。
「ウサギの口って縦に開くんだよ」
 上唇が割れているんだと彼は言う。そこを掴んで左右に引っ張ってみたいなと言えば、彼は噴き出した。むずがゆい。
「ウサギを可愛いって持て囃す奴らはきっと、ここまで見てないんだろうな」
 俺はこの何とも言えない口が好きなんだけどな。飯食わせるのが楽しいんだ。彼はそう言って、兎に草を与え始めた。
「ウサギ好きなんだな」
「ああ、好きだよ」
 家で飼えないしと嘆く彼になぜかと問うと、彼は苦笑した。
「ウサギが家畜だからペットじゃないって、母さんが」
「え、家畜なの?」
「らしい」
 こんなに可愛いのになあ、ペット品種もいるしと、金網越しに兎の鼻を撫でる。兎が足踏みをすると、彼は嫌がってらと笑った。
「抱っこしたい」
「駄目だ。暴れてお前が落として骨折するのが目に見えてる」
 捕獲されるのは本能的にアウトらしい。知らなかった。
「そうなのか」
「ちなみに、耳を持つのも駄目だからな」
 あれは殺したウサギを運ぶときの持ち方だと言いながら、彼は兎に草を食べさせている。じゃあ、もし俺たちがこいつを食べる暁にはそういう持ち方をするのかと言えば、彼は食わねえよといいながらもやはり笑った。
「人参はあげないの」
「うん、人参は糖度が高いから。あんまりあげられない」
「そうか」
 それも知らなかった。
「……何かありがとう、餌とか」
 そろそろ下校しないと門を閉められる。鞄を背負えば彼は立ち上がった。
「ああ、暇ならまた来い」
 帰り道は逆だった。振り返ってまたなと手を振る。
「元気出せよな! 速水!」
 俺の名前だ。
「え」
 思わず立ち尽くしても、彼は笑って手を振るだけだった。逃げ帰った。全身の血管が悲鳴を上げた。頭の中を支配していた卑屈さや即席の絶望はすっかり霧散していて、どうしようもなくなった俺はその晩ずっと自主練に励んだ。それが功を奏したのか、次の試合の前にはレギュラーの座を取り戻せた。
 何事も上手くいっている。現状に満足している。しかしどうしても、飼育小屋を視界に入れられない。気付かれていたなんて、恥ずかしいし恐ろしい。何事も無かったことにしたいのに、忘れたくなくて、どうしようもない。彼の名前を知らないことが今は無性に恥ずかしい。

 酷く居心地がよいので、時間の許す限り飼育小屋にこもっている。可愛さと不気味さを兼ね備えた兎の口元を見ているのが楽しくて、餌やりの時間なんかは本当に幸せにだ。
もう一つ。飼育小屋に入り浸る理由があった。野球部だ。飼育小屋は野球部の彼を見るのに最適なのだ。ここからは野球部の練習が見られる。期待のエースと持て囃される同級生が少年漫画よろしく練習する光景を眺めることは日課になってしまった。見ていて面白いのだ。
 とある金曜日、野球部が校庭で試合をしていた。試合をする様子を横目で見ながら飼育小屋の掃除をしていると、顧問の怒号が聞こえた。思わずグラウンドに目をやると、彼が珍しく怒られていた。ボールを取り損ねたようだった。顧問が口を開く度、ビリビリとした振動が鼓膜に運び込まれる。速水、お前には緊張感が足りない。顧問は確かにそう言った。彼は速水という名前だったのか、初めて知った。そういえば、今までずっと彼の顔と部活と年齢しか知らなかったのか。いや、あと、校門を出てどっちに曲がるかは知っている。速水を眺めながら作業をしていると、いつも帰りが遅くなるから。怒られる人間を見るのはよくないと思いながら怒鳴られる速水を覗き見ると、彼は唇を白くなるほど?みしめていた。
 ゴミを捨てて帰ってくると、速水がフェンス越しに兎を眺めていた。
「本当に美味そうだな」
 日頃から兎に美味そうだと話し掛けることが習慣になっているのだが、それを他人に言ったことはない。同じようなことを考えている奴がいて、まさかそれが速水だとは。初めて素の声を聞いた。声を張り上げる時よりも低く落ち着いた声だ。同級生とは思えないほど大人びている。
「だろ」
 話し掛けてみれば、速水は面白いほどうろたえた。それからは強引に餌やりをさせたり、兎の口について話したりした。落ち込んでいるようだったが、気が紛れたのか表情が少し和らいでいた。それで油断したのかもしれない。速水と別れる時に名前を呼んだ。すると彼はギョッとした表情で逃げて行った。
「あーあ、行っちゃった」
 土日を挟んでしまうことが少し惜しかった。すぐにでも、その後の様子が見たかったのに。小さくなる背中を眺めながら、そんなのんきなことを考えていた。
 それから一ヶ月、速水はこちらを一切見ずに練習に励んでいる。それを飼育小屋から見守っていた。木の後ろに隠れる姉かよ。我ながらなんと健気なこった。速水は水を得た魚のような表情で楽しそうにノックを受けている。毎日毎日、放課後になると白いユニフォーム(恐らく練習着)が真っ黒になってる。餌箱を掃除するぼろ雑巾のようだ。そういえばもう一ヶ月近く雑巾を取り替えていない。用具庫にあっただろうか。ぼんやりしているとスラックスの裾を兎にガジガジと噛まれる。美味そうだと思わなくなった。もぞもぞと動く口を見ていると、この口に草を与えていた速水の手を思い出してしまう。よく焼けた豆だらけの手だった。
 あの日からも変わらず飼育小屋にこもりはするが、速水の鮮やかなプレーを見るか兎の口を見るかで忙しい。兎に噛まれ、鶏に突かれながら決められた作業をこなす。掃除をすると無心になれるので、彼も兎も何もかも見ずにすむ。小屋に積もる砂埃やごみを穴が空くか燃えるほど見つめながら、隅から隅まで箒で掃いた。名前くらい、知っててもいいだろ。ちくしょう。

 俺の名前を呼んだ飼育委員はあれ以降、声を掛けてこない。俺から声を掛ける勇気もなく、一ヶ月ほど経ってしまった。このまま疎遠になるのはよくないと思う。しかし、体が彼を認識したがらないんだ。仕方がないだろう。彼が俺の名前を知っていることは悪い事ではないのに。そもそも、なぜ彼は俺の名前を知っていたのだろうか。と、よくよく考えてみれば、俺は野球部だ。一応エースでもある。名前はよく呼ばれる。彼が俺の名前を呼んだことに意味はない。
 そういうことなのではないだろうか。つまり、俺が自意識過剰だった可能性があるというわけだ。余計に顔を合わせられない。そう考えて最初はもうビクビクしながら過ごしていたが、今日までずっと彼とすれ違いもせずに生活ができていた。だから油断していたんだ。
「速水」
 その声を聞いた瞬間、ドキッとしたね。やっとの思いで振り向けば、しばらく見ていなかった顔がそこにあった。試合前より緊張する。
「あ……」
 名前がわからないから名前が呼べない。しかし、今ここで訊くのもどうなのだろうか。何も言えずにいると、彼の表情は浮かないものになった。
「すまん。名前、ビックリしたろ」
「……いや、アレだろ。部活の時とか」
 向こうが話題を出してくれたから、とりあえずフォローはしなければと口が動く。彼は黙って頷いた。
「本当にすまなかった」
「こっちこそ、何か、逃げてごめん」
「……気持ち悪かっただろ」
 そうじゃない。確かに驚いたんだけど、戸惑ったけど、そうじゃないんだ。何より恥ずかしかった。なぜか恥ずかしかったんだ。
「気を付けるよ」
 今はそれ以上に、居心地悪そうに笑う姿が居た堪れなくって、その顔をどうにかしたかった。
「あのさ、俺ね、名前呼ばれた時、心臓止まりかけたわ」
 だろうなと呟いてさらに項垂れる。
「……俺、アンタの顔知ってたから。余計に」
 ピクリと、項垂れていた顔が揺れる。お前もかと言ったのが聞こえた。
「随分前から、顔は知ってたんだ」
 そうかと抑揚のない声で彼は言う。それから暫く黙っていたが、再び口を開いた。
「……早川だ。早川、大地」
 上手い事が言えず、苦し紛れに近いなと言えば早川の顔の強張りが解けた。
「みとかわ、きとちの違いだな」
「きとちって何だよ」
 久しぶりに見た笑顔だった。
「俺は速水大輝。早川、改めてよろしく」
 名前まで近いなと早川まで言うもんだから、俺もつられて笑った。

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