日に日にエスカレートしていくいじめに耐えかねて樹海までやって来た。ここまで来ればきっと、「ごめんなさい、もう逃げません」って気持ちになる。
 そうしたら、また学校に帰っても頑張れるだろう。そう思って。

 1年前からいじめられている。夏休み前から予兆を感じ、新学期の始まりには確信した。机に白い菊が置いてあったのだ。それが激化の合図であった。
 耳に入る忍び笑いがグルリと体を取り巻いて頭が真っ白になり、怒ることもふざけることもできずにその状況を享受してしまった。タイミングを逃してしまった。それから死人扱いされている。
 腐った匂いがするとか、汚いとか、学校来るなとか、改善を試みても止むことのないお約束の言葉を吐かれながら、殴る蹴るなどの暴行を受ける。頭や腹をやられて蹲ると、「お前死んでるんだから痛くないだろ」、「人間のフリするなよ」とか言われて頭を踏まれる。
 私物なんか常に持ち歩いていないと駄目だったし、持っていたとしてもお釈迦にされた。今は色々な所に隠している。誰にも見つからないような所に。だから埃っぽくなって、余計に煙たがられているんだけど。

 大概のことは気にしなかった。持ち物を駄目にされるのは困ったけど、別に死にはしないと思ったから。
 しかし、理科室にあった薬品を食事に混ぜられた時にやっと、これはマズいだろうと理解した。下手したら死ぬと感じた。
 そこで慌てて担任に相談をした。放課後、誰もいなくなった教室で今までの事を洗いざらい話した。その後、どうにかしてくれないかと頼んだ。
 すると、先生は毎朝挨拶をする時のような穏やかな顔で、「嫌だ。ってちゃんと言ったの? あなたがちゃんと断らないから駄目なのよ。ちゃんと真正面からぶつかりなさい。すぐに先生に言いつけるなんて卑怯よ。甘えちゃ駄目」と、ハッキリと言った。
 信じて欲しい余りに痣を見せようと服を脱げば、「先生はそういう冗談嫌いよ」と顔一面に人を心底軽蔑する表情を浮かべて教室から出て行った。
 どうしても納得できなかった。が、学校において先生は絶対である。人数の次に強いのは社会的地位だ。年齢だ。人望だ。何一つ持ち合わせていない自分が一人でどうにかできる問題じゃない。
 だから、自分の概念を根本から変えてしまおうと思い付いた。人に会えるかすら分からない樹海で極限を体感すれば、命が無事なだけで神に感謝するだろう。
 先生が助けてくれなくても、「まあ、生きてるしなあ」と朗らかな気持ちでいられるはずだ。そういう風に考えた。考えて、今に到る。

 歩く度に落ち葉の擦れる音が響く。アウトドア用のブーツが腐葉土のようになった土をギュウと踏み締める。逃げるように辿り着いた樹海は思っていたよりも良い所だった。3000円もの交通費を払った甲斐がある。蛇のように絡み合う木々はかっこいいし、地面にボコボコと開いている穴からはヒンヤリとした空気が漂って来て何とも居心地がよさそうだ。ここに秘密基地を作りたい。そんなことを思いながら、背負っていた鞄から水筒を取り出して一口飲む。よく冷えている。
 足元は気を付ければ転ばない。ちゃんとした靴を履いて来たのだ。大穴に落ちないようにゆっくり歩けばいいだろう。
 ここで死ぬつもりはない。だからちゃんと準備をしてきた。服装だってちゃんとしている。無謀な格好をして周辺住民に止められたら堪ったもんじゃない。
 親には友人の家に泊まると言った。スクールカーストの最下層になり下がった今や友人自体がいないのだが、母は嬉しそうに「よかったじゃない、行ってらっしゃい」と見送ってくれた。ついでに、「これで服でも買いなさい」と言って、お小遣いもくれた。一日や二日で帰るわけにはいかないし、死ぬつもりもない。
 元々樹海には鬱蒼とした暗い森のイメージがあったのだが、辺りを見回せば植物が賑やかに煌めいている。住めるものなら住みたいくらいだ。夏休みは始まったばかりだし、母には泊まり先を教えていない。今や連絡網なんてものはないから、母が誰かに所在を訊いて回ることはないはずだ。学校に電話したとしても、担任がうまくはぐらかすのだろう。見付けられる心配をせず安心して樹海をうろつける。
 しかし、ここは本当に居心地がいい。ユートピアかもしれない。とにかく木々が美しく、生き生きとしている。手頃な所に生えている幹に触れると、今にも鼓動が聞こえそうだった。
 樹海では死体を見付けると聞いたことがあるが、運がいいのかまだ見掛けていない。その代わりに衣服の切れ端や食べ物の包装などが散らかっている光景にはよく出会う。今跨いだのは誰かの首を吊ったロープかもしれない。最後に食べた食事の包装かもしれない。その時に着ていた服かもしれない。そんなことを考えながら樹海を歩いた。ゾッとしなくもないが、現実味がなかった。

 ごめんなさい。そんな気分にはならない。もう逃げません。逃げて良かったと思う。もう帰らせて下さい。あそこにいるよりも、こっちの方が幸せだ。どんどんどんどん心が樹海に傾いていく。このまま上手く暮らせないだろうか。家族のことさえどうにかできれば、ここにいられるのに。その辺の物を適当に食べてサバイバルするように生きる方がきっと楽しい。
 そんなふざけたことを考えていたのがいけなかった。落ち葉に隠されていた大穴に落ちてしまったのだ。自然って怖いと思う間もなく足がどうにかなった。痛いと言うより熱い。非常に熱くて感覚がない。麻痺している。力が入らない。ズボンを捲くることすら恐ろしい。これはまずいぞと携帯電話を取り出すが圏外だった。
「誰か」
 できる限り声を張り上げるが、反応が無い。急に喉が渇いてきた。慌てて水筒を取り出して飲むが盛大に零した。地面潤してどうする。残った水は大事にしよう。腹が減ったが、口の中がパサパサになる食べ物しか持っていない。どうして缶詰を持ってこなかったんだ。ちくしょう。どうして冒険者ぶって乾パンなんか用意したんだ。
 そうして暫く焦っていたが、随分歩いて疲れていたし、もうどうでもよくなってきて、柔らかく湿った土に身を任せた。眠気がやってきたのはすぐで、抗うことなく目を閉じた。

 どのくらいそうしていたのかよく分からない。ずっと寝ていた。目を覚ましてすぐに携帯電話で時間を確認してみるが、電源が落ちていた。電源ボタンを長押ししてみたが付かない。完全に電池が切れている。いったいどれだけ放置すればこんなことになるんだ。防水だから雨で故障したとは考えにくい。
 今日は何月何日の何曜日で何時なのだろうか。体を起こし掛けて足をどうにかしたことに気付く。やってくる痛みに身を竦めるが、全く痛くない。首を傾げながら足元に目を遣る。足から植物が伸びていた。根付くレベルで寝ていたのか。自分の鈍さに恐れ戦きながら捲くれなかったズボンを捲くると、傷口があったらしい場所から植物が生えていた。宿り木だろうか。だとしたら養分を吸われているはずだし、そもそも人間に宿るだなんてふざけたことがあるだろうか。
 そういえば、まったく腹が減っていない。喉も乾いていない。自分の身体の様子に不信感が募っていく。
 もう一度足を見る。植物は十センチほど伸びている。ここまで育つのに一・二週間は必要だ。つまりその期間寝ていたことになる。にも関わらず、空腹も喉の渇きも感じていない。人は水を飲まなければ三日で死ぬはずだ。寝ながら泥水でも啜ったのかもしれないと思ったが、口元は全く汚れていない。
 何かがおかしい。体に異常はないだろうか。深い穴の中にいるのを良い事に服を脱いだ。全裸だ。体中の至る所から植物が生えている。体の毛が全て蔓や茎になっている。まるで洋画の美女のように大事な所が隠されている。思わずアフロディーテのポーズをとった。虚しくなった。
「ねえ、君、大丈夫……?」
 上から降ってきた声に頭を上げる。穴の淵には明るい髪色をした青年がいて、こちらを見ていた。彼が心配しているのは頭なのか体なのか。彼が何を訊きたいのかは分からないし言葉も出なかったから、思わずへそから生えていた植物の実だか種を千切って、投げ付けた。
「いたっ、ちょっと、何すんの、やめてっ」
 こちらに痛覚は無かった。


 大学で出された課題の参考にしようと赴いた樹海で高校生らしき少年を見付けた。こんな身体的脅威の多そうなこの場所で全裸でモデル顔負けのポージングをしている。
 普段なら無視するのだが、この大穴はどう足掻いても一人では上がって来られない。大丈夫かと声をかけた所、木の実を投げ付けられた。何だこいつ。自然の落とし穴に落ちたにも関わらずピンピンしている。何だこいつ。足の一本や二本挫いていてもおかしくないのに、運のいいやつだ。
 助けようかと訊けば、助けてくれと答えたので、上からロープを垂らして引き上げる。ちゃんと服を着て上がってきた少年は泥まみれで、至る所からは植物が飛び出していた。本当に何なんだこいつ。
「……それで帰るのはやばいね。送ろうか?」
「あの、今日って何月何日ですか?」
 質問を質問で返される。何でこんなこと聞いてくるのだろうか。もしかして、穴に落下したあと気絶していたとか。日にちを言えば、少年は面白いほどうろたえた。日が過ぎてしまったのだろうと、にやつきが顔に出る。
「二週間も寝てたのか……」
 どういうことだ。夏休みが半分もないとぼやく少年の肩を揺する。
「いや、それ以前に、よく二週間もここにいられたね」
「さっきまで、ずっと、寝てたんですよ」
気を失っていたの間違いじゃなくて? と思わず訊き返しそうになった。普通だったら死んでいるはずだ。それが怪我一つなく、身体もピンピンしている。普通だったら体力の低下もあいまって、まともに歩くことすら難しいだろう。
「君、本当に大丈夫?」
頭とか空腹とか。そう訊くと、分からないけど腹も空かないし喉も渇かない。と答える。まれに、そういう人がいると聞くが、こんな所でお目にかかれるとは。こんな縁起の悪い所でも来てみるもんだ。
「病院行こうか」
 一応見てもらった方がいいんじゃないかと提案すると、大丈夫ですと頭を下げられたので、いやいや、どっかがどうにかなってたらどうするんだよと若干食い気味に言ってしまう。
「だってほら、草とかすごい生えてるじゃん」
少年の服の隙間からはみ出た草を引き抜くと、血の付いた根っこが付いてきた。
「……」
そこでふと、現実には有り得ない妄想をした。彼は人でないのではないかと。
「……」
少年も目を見開いて俺の手元を見ている。
「……一旦、俺ん家に行こう」
少年は黙って頷いた。

 少年を後部座席に座らせてからエンジンをかける。一刻も早く帰宅し、彼を休ませなければ。アクセルを踏んで車を発進させる。
「君、名前は?」
言いたくないのか、血の付いた根っこがよほどショックだったのか、彼は無言である。
「……適当に呼ぶからね。シダ君」
 さっき彼から抜けた草はシダによく似た物だった。だからシダ君。とても呼びやすい。
「……それでいいです」
どうでもいいとでも言いたげに呟いて、シダ君は車の中で目を閉じた。眠たそうにしているので、子守唄的な音楽を適当にかける。
 母がよく聴いていた四畳半フォークソング。古臭いし、退屈だから俺はあまり好きじゃない。自然礼賛と現代社会の皮肉が歌われている。都会の歌を歌われたって、それが日常なんだから、どうでもいいじゃないか。日本の端っこから上京した母にはよい曲なのだろうけど。
 都会ではもう見られない、緑で潤った景色を視界の端で流して、一際強くアクセルを踏んだ。車は轟々と音を立てて道路を突っ切っていく。珍しく他の車がいないからいくらでもスピードを上げられそうだ。ルームミラーで後ろを確認すると、何とも気持ちよさそうに寝息を立てている。二週間も寝てたくせにまだ眠り足りないのか。
 シダ君を乗せてから二時間、俺はパーキングエリアやコンビニには一切目もくれずにひたすら車を走らせた。課題の事なんか、すっかり忘れていた。
 家に着いたのは日がどっぷりと暮れた頃だった。

 都会からは離れているが大学には近い。そんな地域に住んでいる。住むだけなら便利だが、人付き合いや課題を考慮すると不便である。
 飲み会だの食事だのテーマパークだので、貯蓄は凄まじい勢いで削られていく。交通費が財布に痛いのだ。夏休みは特に。長い夏休みをここまで恨んだことはない。
 同級生に言ってやりたいね、てめぇら遊びすぎなんだよ! 飲みはせめて週一にしろ! (肝臓的な意味で)シジミ食えよ! って。
 そんなことはどうでもいい。今は車の中で泥みたいに眠ってる泥まみれの高校生だ。起こしちゃ悪いし、放置するのもなんだから、部屋まで運ぶことにした。早速持ち上げてみると驚くほど軽かった。講義で使う石膏よりも軽い。健康的な高校生男子の重さじゃない。人じゃない可能性が高くなっていく。こいつ本当に大丈夫なのか。
 事情はまた後で訊こう。そうと決まればさっさと運んで課題の続きをやろう。
 少年を肩に担ぎ、部屋の鍵を開けた。

 部屋は狭くはないのだが、画材や材料や道具や作品に場所が取られている。仕方ないので布団に寝かせた。泥が付こうが関係ない。どうせ今日は徹夜になるだろう。
 キャンバスをイーゼルに立て掛け、先ほど見た有り得ない妄想を思い出す。シダ君のおかげで、課題は何とかなりそうだ。傍でピクリとも動かずに眠っているシダ君のことをすっかり忘れて課題に打ち込む。どうにも手が止まらなかった。彼は樹海の妖精か何かかもしれない。キジムナー的な、アルラウネ的な、あるいはマンドラゴラ的な、そういうものなのかもしれない。いわくつきの樹海のモチーフとしては絶妙に好ましい。
 蛇のように絡み合う木々、ガラス細工さながらに煌めく薄葉、地面に這い広がる深い緑。それらに囲まれ浸食された深い穴の中に青白く浮かび上がる少年。足元に落ちる、根が血で潤ったシダ。腹部は丸く赤く鮮やかに抉られていて目を引く。手には木の実を持っている。見たこともない木の実。紫がかった茶色をしており、うっすらと白い筋が無数に伸びている、小指の先ほどの大きさの粒。少年は発光している。穴の様子が分かるのは彼の身体が放つその光のお陰だろう。
 自分でも驚く速さで構図が出来上がっていく。2Bの鉛筆を持った腕は迷いなく線を引いていく。頭の片隅では色の計算まで始まった。開いている手は必要な絵の具のチューブを足元に転がして、落ちていた落書きまみれの紙に絵の具の割合を控える。
 下書きが出来上がる頃には汗をかいていた。しかしまだ手は止まらない。パレットに黒と少しの緑を絞り出して混ぜる。水で薄めてキャンバスに塗っていく。定めた濃淡に従って重ねていく。あの時、この光景を見たと錯覚してしまいそうになりながら、淡々と塗り続けた。
「……ん、」
 人の声。そこでやっと部屋に連れてきた少年のことを思い出す。
「あ、起きたんだね」
 おはようと声を掛ければ、彼はまだ眠いですと言いたげな顔でおはようございますと頭を下げた。さて、こいつをどうするべきか。


 目覚めると、見知らぬ部屋に敷かれた煎餅布団の中にいた。先ほど腹から出血したことを思い出し慌てて確認する。傷口すらない。
 ふと、見知らぬ背中が視界に入った。樹海で会った大学生(仮定)だ。彼は大きなキャンバスに何かを描いている。後ろから眺めていると男がこちらを振り向いた。
「あ、起きたんだね」
振り向きざまに描いていた物が見える。深い穴の絵だった。
「あ。傷の手当、してなかった」
すっかり忘れてたよと言って男は立ち上がった。部屋の隅から救急箱を引っ張り出して戻ってきたと思ったら、問答無用で服を捲ってきた。
 あれ、と。間抜けな声が上がる。そうだ、傷はもうないんだった。
「へぇ、傷口なくなったんだ。痛くはないの」
傷があった場所をぐりぐりと押される。さほど驚いてはいないらしい。痛くはないと答えるとそれはよかったねと無感情に返された。
「これさあ、根っこ抜いたら痛いの?」
 そして体から生えている他の草にも手を出してくる。それも痛くないと言えば突然引き抜かれた。再び出血して、血や肉片が床に落ちた。こいつ何なんだ。
「ゼラニウムみたいな匂いだね」
傷口を指差される。血の臭いと言えばいいものを。
「何、君アレ? 妖精かなんか?」
現代の日本にそんなもはいない。いても生き霊ぐらいだ。
「いや、ついさっきまでこんなもの生えませんでしたよ」
と言っても、自分のこの状態を踏まえると、勘違いしても仕方ないかもしれない。向こうも本当? と訊いてくる。しっかり根付いてるよねとの言葉と共に、もう一本抜かれた。何度見てもショッキングな光景だ。
「傷口に何か付けたら癒着する? 身体冷たいよね。てか、一回死んだりしてるの?」
「……」
 自分でも何が起こったのか分からないのだから、訊かれても困る。
「ごめん、ちょっと無神経だったね」
やっと空気を読んだのか、相手の口数が減った。喋る時は喋るのに、一旦黙るとだんまりか。これは非常に気まずい。
「……何と呼べばいいですか」
苦し紛れに訊ねれば、彼は白い歯を零した。
「丸山次郎。適当に呼んでよ」
 差し出された手を反射的に取ると、丸山は笑みを深めた。

「何を描いてたんですか」
「あー、大学の課題でさ。面白い物見たから、描きたくなって」
 ありがとうね。と、謎の感謝をされる。
「俺、ファンタジーとか好きなんだよ」
 丸山についてきて正解だったと思う。よくよく考えなくてもこれはとんでもないことだ。きっと化け物扱いされるだろう。学校なんかに行ったら、過剰な水遣りや日照などの攻撃を受けるだろう。痛みがないから負担は減るが、確実に学業どころではない。そもそも、この状態で学校に通えるのか。現実的なことを考えれば考える程、ただでさえ低い体温が下がっていく。
「ほら、これ君だよ」
 丸山は絵の方を見て何か話している。
「……何ですか」
「だから、ほら、この男の子のモデルがシダ君なの」
「微塵の面影もありませんね」
まあ、頂いたのは設定だけだから。悪びれもなく、丸山は言った。
「人目につくからね。似顔絵は不味いでしょ。肖像権以前の問題だ」
君から親和性を奪っちゃうのは酷だしね。そう続ける。
 そんなもの、はなからないのに。
「……思うんだけど。親に相談した方がいいよ」
「何でですか」
「だって、もし君がいなくなったら、両親に迷惑かかるよ。
 せめて、君がどうにかなっても守られるようにしなきゃ」
 逃げるとね、何もかもが駄目になるよ。よくある話でしょ。これは君だけの問題じゃない。丸山は落ち着いた声で言う。
 滑らかな言葉は耳から流れ込み、脳に浸透していった。
「親は大事にしようよ」
 君自身のことは、それからゆっくり考えようね。穏やかで安心する声色だった。
「居場所がなくなったら、ここにいてもいいよ」
 ちょうど、話し相手が欲しかったんだ。そう言って、丸山は目を細める。
「逃げるにしても、準備は大事だよ」
 丸山に抱えられる。本当に軽いなあ。養分持ってかれてない? 彼は微かに笑う。
「知り合いに、植物の研究をしている奴がいるんだ。きっと大丈夫だよ。ちゃんと調べて世話するから」
「……何かズレてませんか」
 何もかもが杞憂だ。そう思えてきて、笑えた。

………

 僕の見たユートピアは、この体に凝縮されたようだ。
 こころなしか青白くなった腹をまじまじと眺める。手をひらひらさせて裏表を見るが、血管の巡りがおかしくなっていた。もしかしたら、葉脈になっているのかもしれないが、その辺はよく分からない。そうしたら、この体から血が流れることもなくなるのかもしれない。きっと、腕を毟り取ったって痛くないし、すぐに生えるのだろう。
 起きてすぐもし万が一、僕の体の異変に気付かれることのないよう、念には念に念を入れて顔や肌を限界まで覆った装いに身を包む。
 車に乗るのだし、この格好の方が不審なのではないかと思いながらも、丸山に従う。この夏休みの最中、こんな厚着は酔狂だ。
 丸山に連れて行かれたのはとある大学の研究室だった。車に乗っている間に色々と話を聞いた。詳細は頭に入らなかったが、丸山の知り合いでとにかく植物に詳しい男がいるという。
 学生たちにじろじろと見られながらキャンパスを歩く。構内への入り口を無視して進む丸山の後を追う。研究室は地下にあるらしく、外から連絡階段を使って中に入るそうだ。
 中は冷房が入っていて涼しい。外からの接続の為、廊下の片側が窓に面しているお陰で地下でも太陽の光が届く。快適な空間だ。
 長い廊下を過ぎると研究室と書かれた札が掛かるドアが目に入った。大学の研究室は狭いんだと従兄から聞いたことがあるが、ここは通っている高校の理科室と同じくらい大きかった。
 とても広い大きなその一室には苔に対して陽気に話し掛け続ける男がいた。男は丸山が名を呼んでようやく顔を上げる。なるほど、こいつが植物の研究をしている角田か。
 角田は無愛想にどうしたと言い掛けたが、こちらを見て硬直した。
「その少年、もしかして」
 まさか、一目見ただけで分かるのか。自意識過剰なほど周りの視線を気にして帽子やマスクで顔や植物が見えないようにしたというのに。さすが植物に詳しい男。
「このボクの研究に興味があるのかい? 丸山、君って奴はいい仕事をするね。未来ありそうな少年を助手として連れてきてくれるとは。恐れ入った」
 ……そんなことだろうと思った。杞憂だ。丸山も同じようなことを考えているのか、顔に苦笑を浮かべていた。
「違うんです」
「あ、ちょっと、シダ君っ」
 話すよりも見せた方が早い。そう判断し、服を脱ぐ。なぜか丸山が狼狽えた。
「あ、興味があるのはボクに対して? そっち系? ボク植物にしか……」
 そこで角田は言葉を切って、こちらに近寄る。そして、へそから生えている草を手に取った。
「これは、見たことがない。まさか君、新種を見付けてくれたのかい!?」
 そうじゃねーよ。思わず発した言葉は丸山と綺麗に被った。丸山は溜息を一つ吐くと、へそに生えている草を引き抜いた。ブツリと音を立てて、草は根こそぎ抜けた。傷口からはドプリと血が溢れ出る。
「……君は悪魔、いや、植物に魂を売ったのかい?」
 いや知らねーよ。とも言えず、気付いたらこうなっていたと前置いて、大まかな経緯を教えた。
「なるほどね。そんなことが起きるとは、とても面白いね」
 面白いと言う角田の声には抑揚がない。
「それはそうと、この草貰っていいかな」
角田は先ほど抜いた草の他に数本、僕の体から抜いて行った。
「角田、さすがにシダ君が可哀想だって。お腹とか穴ぼこだらけじゃん」
 さきほど脱ぎ捨てたパーカーを丸山が拾ってきて、血が付かないように肩に掛けてくれた。
「植物が生えてるといえど人の形してるし。それに、痛覚ないんでしょ。可哀想だとは思わないなあ」
 角田は引き抜いたばかりの草たちを鉢に植え替えている。案の定こちらには一切視線を向けない。分かりやすい。
「シダ君が植物のカテゴリーに入った時、死ぬほど後悔しろ」
 丸山は僕の肩をさすっている。角田の言った通り、痛くも、ついでに言えば寒くても困らないのに。
「今は違うでしょ、今は」
植物になった瞬間からだよ。ボクが労わるのは。と、角田は続けた。
 ……そのカテゴリーに入る事を前提に話を進めないでくれ。
 とりあえず調べると言って、今度は草に話しかけ始めた角田に、丸山は溜息をつく。あんなんでもちゃんと調べてくれるから帰ろうと促され、僕らは研究室を後にした。
 彼らは暢気すぎる。しかし、彼らのお陰で自分に起きている現象が他人事に思えるのも事実であった。

「さすがに、君はレアケース過ぎるね。ボクじゃ対応できないや」
 数日後の午前、角田から連絡が来たので研究室を訪ねたが、彼は至極あっさりと匙を投げた。
「それに、君はパッと見が人だし。何か気乗りしないんだよね」
 やはり難しいのかと思えば、彼自身のやる気の問題もいくぶんか絡んでいるようだ。
「でもまあ、とりあえず、君に生えてた植物についてはちょこちょこ調べさせてもらってるよ」
 説明欲しい? と、角田は話したいと言わんばかりの顔をしている。丸山が頼むと彼は喜々として、乳白色のツルツルとしたトレーをデスクの上に置いた。中には僕から引き抜いた植物が鉢に入れられた状態で並べられている。
「細かい事は言っても分からないと思うから、ざっくり話すよ」
 そう前置いて、角田は艶のない黒色の机に置かれたトレーの中身を端から指し始めた。
「見て分かると思うけど、この子たちは大体同じような種類ね。シダ植物。胞子で増えるんだよ。で、ちょこちょこツタっぽいのがいる感じかな。教授に知らせたら評価上がるかも。ああ、安心してね。面倒になりそうだから公表はしないよ。君が植物になった時に持ってかれるのは嫌だし。一応、知り合いだしね」
 ペラペラと饒舌になった角田は植物の説明に加え、僕の危惧したことをピタリと当てて、おまけに公の場に突き出さないとも言ってくれた。
「ありがとうございます」
「別に、君のためじゃないし」
 角田はぶっきらぼうに吐き捨て、折り畳んだ紙を投げ付けてきた。開くと黒いインクでどこかの住所が書かれていた。
「ボクがお世話になってる病院。分からないって言われるのが関の山だけど、行ってみたら?」
 話の分かる先生だから、気休めにはなるよ。そう言って角田は手を払う仕草をした。
 それを見た丸山に腕を引かれ、僕らは研究室を後にした。保険証は持っていないし、まだ昼前だったから、そのまま病院に向かうことにした。

 案の定、角田に紹介された病院でも、僕の体のことはよく分からなかった。体の構造が人じゃなくなってると言われたが、あまり現実味がない。
「先生、シダ君はどうなってしまうんでしょうか」
「君はこのままでいたくないのかい」
「支障がないので、このままでもいい気がします」
 けど。と、言い掛けて黙る。良くないと言ったって、僕の体は治せない。先生が困るだけだ。
「そうかい、なら、もう少し様子を見ようかね。本当は大きな病院に行くべきなんだけど、君がそれでいいなら」
 名前を訊かれたが、答えられなかった。丸山にも訊かれたが、自分の名前が思い出せないのだ。

 思い出せないと言えば、母のことも、いじめっ子のことも、酷い先生のことも思い出せない。
 何をしたのかは覚えている、何をされたかも覚えている、何を言われたのかも覚えている。しかし、彼らの名前は? 正確な居場所は? 顔は?
 ちゃんと覚えていたはずだ。覚えていたから、帰れないと思ったんじゃないか。さっき、お医者様にも「でも、僕のこれからはどうなるのでしょうか」と、訊きかけて止めたじゃないか。
 夏休みが終わりそうで、母に心配をかけてしまうと困ったじゃないか。しかし母に連絡しようにも、電話帳の中の誰が母なのかが分からない。
 思い出せ、僕には心配してくれる母がいる。でもどんな? 名前は? 顔は? 趣味は? 具体性がない。実体がない。代名詞でしかない。
 母じゃくてもいい、いじめっ子はどうだ。どんな虐めに遭った? 恥ずかしい、痛い、悲しい目に遭った。例えば? 分からない。覚えていない。この体には傷も残っていない。
 なら先生は? 僕は先生に何を言われた? 自分が情けない、先生に失望した。そんな感情を覚えたじゃないか。例えば? 分からない。そもそも、先生は何の授業の先生だっけ? 担任? 性別は? 性格は?
 どうして思い出せないのだろうか。彼らは本当は実在しない人物なんじゃないか? 僕の頭がおかしくなったっていうのか?

 丸山と角田、目の前にいる医者。彼らのことはちゃんと具体性を持って記憶している。彼らはきちんと存在している。僕の頭がダメになっているとは思えない。
 僕は長い悪夢を見ていたのではないだろうか。だとしても、樹海で目覚める前はどうしていたのだろうか。
 あれ、どうしていたっけ? そもそも、どうして僕は樹海に来たんだ? 観光? 自殺? 興味本位? あれ? 悪夢って何だっけ? 僕はどうして家に帰れないんだっけ? ああ、家が分からないからだ。なら、警察に行けばいいじゃないか。いやいや、僕は自分の名前すら分からないんだ。迷子の子猫ちゃんも真っ青だ。

「どうしよう……」
 病院から出て頭を抱える。
「どうしたの、シダ君」
 何もかも分からなくなってしまったと、そう丸山に話した。なるべく簡潔に、分かりやすく。彼は軽い質問を挟みながら話を聞いてくれた。
「うーん、ああ、そうだね、どうしようか」
 彼はうんうん唸っていたが、荷物に生徒手帳などがないかと聞いてきた。僕は学校に通っていたのだろうか。それすら分からないと伝えると、帰れば君の荷物があると言ってくれた。
 目を覚ましてからのことはしっかり覚えているのに。
 もしかして、体と一緒に脳まで作り変えられているのか。すると、下手したら、僕は意識しない内に色々なことを忘れて、忘れたことにも気が付かなくなって、もしかしたら常識まで分からなくなって、角田が言ったように植物になってしまうのかもしれない。
「シダ君、顔が怖いよ」
 丸山に頭を撫でられる。痛覚はないが、触覚はあるし温度も分かる。焦るのはまだ早い。今は僕の身辺整理のことを考えよう。
 いるであろう僕の家族に僕のことを伝えて、僕が僕じゃなくなっても社会に混乱が起きないように。
「シダ君。帰りに、何か美味しい物食べようか」
 元気づけようとしているのか、丸山が妙に優しい。ここは好意に甘えよう。
「僕、窒素が欲しいです。あと、リン酸とカリも」
 冷たい水もたっぷりもらえたらいいなと思いながら答えると、何故か丸山が変な顔をしている。どうしてだろうか。
「……シダ君、園芸とか好きだったの?」
「覚えてません。好きだったのかもしれません」
「そっか。じゃあ、俺のご飯は適当でいいか」
 ホームセンターに寄ろうと言われ、嬉しくなって返事をする。土も欲しいな。何て、思いながら、丸山の車に乗り込んだ。



 俺は食事のことを訊いたはずだ。それなのにどうしてシダ君は窒素とか何とか言ったのだろうか。分かっている。さっき病院で聞いた。彼の体はもう人とは違う。恐らく、体につられて脳が順応したのだろう。あくまで推測、いや妄想の域すら出られない仮定でしかない。
 シダ君は自分の体が変わっているというのに、あまり気にしてないようだ。ただ、色んなことを忘れ過ぎている。こんなことになるなら、もっと早めに色々と訊いておけば良かった。
 彼と住むことは難しくない。彼は食事を摂らないし、うるさくもない。ここ最近は特にぼんやりしている。置物のようなものだ。俺の生活に支障はない。
 ただ、彼の家族のことが気がかりだ。捜索願いか何かが出ていてもおかしくないのではないか。どうにか、連絡が取れないだろうか。
「そういえば、シダ君」
「何ですか?」
 やはりぼんやりと窓の外を眺めているシダ君に声を掛ければ、彼はゆっくりとこっちを向く。大丈夫、きっとまだ大丈夫だ。
「携帯の電源入る?」
「入るんですけど、色々な人から着信とかメールが来て鬱陶しかったので、電源落しちゃいました。誰かも分かりませんし、怖いじゃないですか」
 先に言えよ。やっぱり大丈夫じゃないかもしれない。
「面倒だと思うけど、メール見て、家族からっぽい文面の物探してみてよ。同じ名前で何通も着てたり苗字が被ってたりしたら多分そうだから。保護しといて」
 シダ君が素直に頷くのがミラー越しに見えた。画面を凝視しながら携帯を操作している光景は、年相応に見えて微笑ましかった。

 いつの間にか、自宅の近くまで来ていたようだ。肥料を買うのなら車のままがいいだろう。どうやってシダ君に与えればいいのだろうか。まさか彼は肥料を食べるのだろうか。それはちょっとマズイんじゃなかろうか。普通の植物でも肥料をやり過ぎるとよくないと聞いたことがある。それに土に混ぜる物だろう。彼を鉢の中に突っ込むべきなのだろうか。
「ねえシダ君、土も欲しい」
 駐車場に車を留めて訊ねると、彼は期待に満ちた眼差しをこちらに向ける。
「いいんですか?」
 ついでに、プランターか鉢を買おうか迷ったが、彼が入るサイズの物は値段がべらぼうに高かった。当分はビニールの中で生活してもらおう。歯朶は日光に当てなくてもよいから、部屋の中に彼を置くことになるが、俺の部屋は大丈夫なのだろうか。
 シダ君が保護したメールを見ながら、彼が台車に肥料や土を乗せる光景を見る。そんなに良い体格には見えないが力は結構あるようだ。彼は遠慮を知らないのか、20キロの土を2袋も買おうとしている。確かに窮屈なのは良くないと思うけど、下手したら俺の寝床が浸食されてしまう。
「あ」
 見ていると気が気でない。と、逃げるように再び見たメールの中に気になる文面を見付けた。
 差出人は星野花枝とある。

【樹、どこにいるの?】
【樹、いつ帰って来るの?】
【連絡しなさい】
【何かあったの?】

「こりゃあ、母親だな」
 そうか、シダ君の本名は星野樹か。よりによって樹か。植物と縁が深い。早速教えてやろうと顔を上げると、彼はレジの近くにいる。まさか、買い物には金が必要だってことまで忘れてないだろうな。
 慌てて向かうと、シダ君はこれで。と言ってレジへ進む。待っていてくれたのか。高校生だろうか、素朴な雰囲気の可愛い女の子がレジにいる。
「あ、大きなビニールとかありますか?」
「はい、ありますよ」
 そう言って彼女は足元から大きな袋を数枚取り出してくれた。さすがホームセンター。シダ君は不思議そうにビニールを見ている。何か、変なことを言いそうな気がしたので先に車に乗っていてくれと促した。
 肥料の扱い方について訊こうと思ったが、変なことを言ってしまいそうだったのでやめた。後で角田にでも訊こう。
 清算を済ませて車に荷物を詰め込んでいるとシダ君が車から降りてきて手伝ってくれた。
「僕、この中に入るんですか」
 シダ君は不満げにビニールを掴んで広げる。思ったよりもだいぶ大きい袋だった。彼も同じように思ったらしく、これくらいならと呟いて黙った。

「お母さん、分かったよ。君の名前も」
 車を走らせ、肥料の袋を見つめるシダ君に声を掛ける。
「そうですか」
彼はこちらに目もくれなかった。最早自分の本名すらいるものではないのだろう。
「メール返してあげなよ」
「何て返したらいいのか、分かりません。それに、」
 覚えてもいない親に会いたいとも思いませんし。
 シダ君ははっきりとそう言った。その表情には何の感情もこもっていなかった。この子はもう戻れない。漠然とそう思った。しかし、彼がいなければ社会は黙っていない。彼の母きっと大変な思いをするだろう。
「僕、死んだことになりませんかね」
「うーん、死体がないと諦めが付かないんじゃないかな」
 シダ君は黙った。家に着いてからも暫く黙っていた。



 死体が見付かればいい。しかし、誰かも分からない人間、まして今後関わるかも分からない社会の為に死ねるか。いや、死ねない。昔の僕は死にたかったのかもしれないが、そんなことは知ったことではない。
 丸山が用意してくれた土の中はとても心地良い。ずっとここにいたい。ずっと、ここに。
「シダ君」
 僕の本名を知ったのに、丸山は呼び名を変えない。僕の名前は星野樹だそうだ。名前を聞いても特にどうとも思わなかった。やたらメールで僕の無事や居場所を訊いてきた人が母親だったのかと思い至ったくらいだ。
「何ですか」
「言い方変だけど、死にたくなったりしないの?」
 違うんだ、嫌味とか、死んで欲しいとかそういうアレじゃなくて、何と言うか。しどろもどろになる丸山に憐れみを覚えた。
 死んでどうする。この体に不都合はないというのに。人間とは事情が違う。僕には土と水があればいい。無ければ干からびて枯れるだけだ。苦しみが存在しない。人間であった過去に記憶していただろう苦しみは綺麗さっぱり忘れてしまった。仮に、人に化け物と言われようが何かされようが、それは人でない僕にとって意味のないことだ。僕にはもう人間だと言う実感がない。
「脳がそういう風に考えない作りになっているんだと思います」
 丸山は腑に落ちたと言わんばかりに頷き、だろうね。じゃないと普通、土や肥料で喜べないからね。と言って土の中に手を突っ込んできた。
「体と一緒に人じゃなくなっていくね。本当に、植物になっちゃうのかな」
 そんな気がしますと答えると、丸山は冗談に聞こえないと軽い口調で頭を撫でてきた。泥がつく。この人は頭を撫でるのが好きなのだろうか。頭に生えた植物が抜けてしまいそうだ。
「頭の草が抜けたら、禿げるね。若禿げはつらいなあ」
 それの何がつらいのだろうか。ハゲだとファッションの幅が狭まる、髪型で誤魔化せない、などと言っていたが今の僕にとっては、見た目なんてものは本当にどうでもいい物である。
「でも、シダ君って殺しても死なない気がする」
 そこは僕も同感だ。僕は死なない。この体が朽ちても。
「変なこと言ったね。はは」
 それっきり、丸山は背を向け、何かを呟きながらあの絵の続きを描き始める。その光景を見るのは好きだった。彼の描く森は居心地がよさそうなのだ。
 休憩と言って食事を摂るのを見ていると、一口食べるか訊かれた。口にする気は起きなかった。残飯を土に混ぜて貰った方が嬉しいが、彼は嫌がるだろう。
 彼は夜通し絵を描き続け、僕はそれをずっと見ていた。

 起きたら、人間の体が必要なくなっていた。多分、必要な養分を吸い切ったんだと思う。肉を突き破って出てみると、丸山に悲鳴を上げられたが、意味が分からない。
「どうしたんですか」
 そう発音したはずなのだが、彼には伝わっていないようだ。こちらを凝視している。たぶん、今の僕には喉も舌も唇も顎もないからだろう。きっと、人間と同じような調音ができていない。
 しかたなく、土の中にある肉をビニールの下に敷かれたブルーシートの上に放る。彼は僕と肉を見比べて、笑顔を浮かべた。
「シダ君! これで、死体を見付けさせられるよ!」
 良かったですねと答えて笑い返したが、丸山は異種間コミュニケーションってどうするんだよと嘆いている。とりあえず、部屋に置いてあった真っ白な画用紙に文字を書いた。
『早く捨てに行きましょう』
「おお、丸っきり植物になったんじゃないんだね。よかった」
 何が良かったのか。その疑問を見透かしていたかのように、彼は「シダ君の死体があるからてっきり、植物に寄生されててシダ君は用無しになったのかと思ったよ。今はそれが本体なんだね」と続けた。
「シダ君が出て行った後は治癒しないんだ。穴ぼこだらけだね」
 俺が触ったら指紋とか付いちゃうのかなあ。丸山はそう言って僕の死体を前に考え込んでいたので、僕が運んで捨てればいい。と提案した。
 その日は一日中、丸山が僕の人間の体を描いているのを見ていた。描いたうえで写真や動画も撮っていて、この人は少しおかしいなと思った。
「これで、もうシダ君は星野君じゃなくなっちゃうのかな、社会的に」
 心からそう思っているような、安心した表情を浮かべていた。

 次の日。太陽も出ていない早朝、まだ深夜だろうか。僕らは丸山の車に乗り込んだ。いくら僕が生きているとはいえ、人間の死体を捨てるのだ。見られては都合が悪いと丸山が言っていた。
 樹海に向かいながら考えた。僕は色々なことを忘れて行っている。角田のことはかろうじて、お医者さんのことはぼんやりとしか覚えていない。必要のなくなった物から次々と忘れてしまうのだろう。しかも、この体ではコミュニケーションが億劫だ。
 いつ完全な植物になってもいいように、これが終わったら丸山に伝えておこう。
「じゃあシダ君、運んで」
 樹海に着くと丸山はトランクを開けた。そこから僕の死体を取り出す。その辺に置いておこうかと言われたので、放った。丸山は僕と死体の写真を撮った。名残惜しいと呟いたが、すぐに「帰ろう」と言って僕の体に触れた。僕はこの樹海に根付きたいとほんの少し感じた。
「これで、全部終わったね」
 その声はとても弾んでいた。

 樹海から帰ったらドッと疲れたので、シダ君と一緒に布団の中に入った。朝起きたら案の定泥まみれになっていたし、シダ君は土の中に戻っていた。そりゃそうか。
 ふと、足元に泥まみれのキャンバスが落ちていることに気付く。爪先で蹴ってしまった。拾い上げるとキャンバス一杯に大きな字で雑に何か書かれていた。
『僕はきっと、人のことは何も分からなくなります』
 そう書いてあるキャンバスに「だから何だ」と毒づく。
「シダ君、おはよう」
 だからなんだと言うんだ。
 俺はちゃんとシダ君のことが分かる。シダ君はシダ君だから。
「君のことを星野君と呼べなかったように、君を意志のない物体としては扱えないんだよ、もう」
 もぞもぞと動くシダ君を撫でる。彼はそれに応えるように俺の背中を叩いてくれた。
「もう君は誰にも煩わされなくていいんだ」
 肉親にも友人にも知り合いにも、俺にも。

 数日後、さほど鳴らない携帯にメールが着た。角田からだ。
「ニュース見た。やるじゃん」と書かれていた。つられて普段見ないテレビの電源を点ける。どうやら、星野樹君が樹海で発見されたようだ。
「発見。って、本当にそう言うんだ」
 シダ君は俺が無事に保護している。

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